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宝は私たちの足元にある

昨日出勤しようと家から駅に向かっていると
道沿いにあった家がシートで覆われていた。

防音と書かれたそのシートは過去に見覚えがある。

ここにあった家が解体されるところらしい。

そういえばここにあった家は古かったような
そんな気がするのだが、
いざその家がどんな形や色だったかを思い出そうとすると
全く浮かんでこない。

家から最寄り駅まで徒歩で5~7分の距離で
行きと帰りで通る道が違うので、
少なくとも1年で200日以上はその前を通っている。

しかも、私は今の家を建てるまでは
今回解体された家の2軒隣にある賃貸のハイツに
5年ほど住んでいた。

にもかかわらず
全く記憶に残っていないのである。

過疎化が進む我が町では空き家が解体されるシーンに
過去から何度も遭遇してきた。

だが、その度に今回と同じように
「あれ?ここにあった家ってどんなんだったっけ?」と
思い続けてきた。

それは私たちの脳がそれだけ
自分にとって不必要だと判断した情報をカットして
記憶に残しているという証拠であろう。

自分に関係のない家だから
その家の形や色の情報は頭に記憶されないし、
仮にそれが年間200日以上であっても然り。

これとは逆に何かに意識を向けだすと
妙に色んな所でそれを見るようになる現象を
カラーバス効果などと呼ぶが、
それは一つのことに意識を向けることで
脳がそれを自分に関係ある情報だと認識するからである。

つまり、私達は何かに興味を持たない限り
そのことを学ぶのは難しいのだ。

好きこそものの上手なれという言葉があるが、
それはまさに好きだからこそ、
そのことに対して全力で意識が向き、
感度高く日常から情報をキャッチできるからであろう。

ではこれをさらに逆に考えてみるとどうだろうか。

実は私たちが成長するために必要な情報は既に
身の回りに沢山転がっているということである。

それに意識を向けるか否かで
私達は何物にもなろうと思えばなれる。

もちろん、意識を向けた翌日から劇的に自分が
変化するわけではないだろうが、
それでも意識を向けることで、それまでとは
全く違う世界が見えることは間違いないだろう。

私たちは何かになろうとするときに
自らどこかに向かい、扉を開けなければならないと
思いがちである。

しかし、実際には私たちの足元には
何かになるためのアイテムは無数に転がっている。

いわば宝の山の上で生活をしているような
ものなのではないだろうか。

そう思うと何だか現状に不満を言って
何も変わらないのはあまりにもったいないことである。

不満を解決するためのヒントも、
自分が変化するためのヒントも既に足元に
ゴロゴロと転がっているからである。

後は自分がどうなりたいのかをイメージすれば
そうなるための情報は沢山入ってくる。

私たちが何かになるためにしなければならないことは
興味というスイッチをONにすることだけなのだ。

結局そこにあった家は思い出せなかったが、
何だか壊される廃墟に妙な元気をもらえた
寒い早朝であった。

ちなみにその日の晩にGoogle Mapのストリートビューで
そこにあった家を見返してみたが、
それを見ても「あれ?こんな家やったっけ?」と
思ってしまった。

どれだけ他人の家に興味がないのだと、
自分自身にツッコミを入れたのはここだけの話である。



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