余韻の大切さに気付いた話
先日ふと懐かしい曲を思い出した。
それがこの曲。
リリース年は2010年ということなので
14年前の曲になる。
ちょうどこの頃海外によく出張に行っており、
しばらく日本を離れて帰ってくると
妙に流行っていたので逆に印象に残っている。
先日ふと通りがかりに流れているこの曲を聞いて
頭の中で自動再生され始めた。
この曲は歌っている植村氏本人のエピソードから
作られた曲らしく、
同居していた祖母が植村氏に「トイレの神様」の話を
してくれたこと、
そしてそんな祖母に対する思いが歌われている。
何だか懐かしいなと思いながら
頭に流れるこの曲をちゃんと思い返そうと、
YouTubeで久々にこの曲を聞いてみることにした。
そうそう。この声。
アコースティックギターと植村氏の声が
流れ始める。
そうして1曲聞き終わった時に
私の中でとある感情が湧き上がってきた。
それは「最後のフレーズがもったいない」
ということである。
この曲は総じておばあちゃんと植村氏の
関係について描かれており、
後半ではそんなおばあちゃんが亡くなってしまう。
「おばあちゃんが教えてくれたことを大事にして
これからもトイレを磨いていくね」
というメッセージでこの曲が終わりになると
私はてっきり思い込んでいた。
ところがである。
この曲の最後には
「おばあちゃん おばあちゃん ありがとう
おばあちゃん ホンマに ありがとう」
というフレーズが入るのである。
こうしてこのフレーズを読まれた読者の方は
「え?それの何がダメなの?」と
思われるかもしれない。
だが、私はこのフレーズを聞いてなぜだか
とてももったいないと思うとともに、
このフレーズはなくても良かったのではないかと
思ったのだ。
それはなぜか。
おばあちゃんへの感謝の気持ちを
直接描かなくても十分に伝わっているからである。
この曲の歌詞は抽象的な部分がなく
とても具体的なので
聞き手の頭の中には情景がしっかりと浮かんでいる。
なので、普通に聞いていればこの歌詞の主人公(植村氏)が
おばあちゃんに対して罪悪感と感謝の気持ちを
持っていることは容易に想像できる。
にもかかわらず、直接的な感謝の言葉を
フレーズにしてしまうことで、
何だか曲の雰囲気自体が壊れてしまうような
気がしたのである。
映画や小説などでもある程度結論が
途中で見えるような作品に出会うことは
しばしばある。
その結論が予想通りだったとしても
何となく映画を観終わった後には
余韻のようなものを感じることができる。
ところが、この曲の最後のフレーズは
聞き手の余韻をかき消してしまうような
気がするのだ。
何も感謝の言葉を述べることが悪いわけではない。
ただ、それを歌詞に入れないことで
聞き手は自分の描いた情景で
曲を聞き終え、余韻に浸ることが
できるのではないだろうか。
昔この曲が流行っていた頃には
音楽番組などでしばしばこの曲を聞いていたし、
その際には最後のフレーズを何度も聞いていたはずなのに
その時は全くこんなことを感じなかった。
あれから14年経ち、私も少し感覚が
変わったのかもしれない。
もしかするとこれはnoteで毎日発信して
自分の書いた文章がどのように見えるのかを
意識しているからであろうか。
全部説明してしまえば分かりやすいけれど、
あえて大事な部分は読者の方の想像にお任せする。
そんな作品をこれからも目指していきたいものである。
この記事を最後まで読んで下さった読者の方、
ホンマにありがとう。