メタファーの想像による創造的な解釈。(してもよいver.)
ぼくのこれまでの人生の中では、あるころ
「メタファー」という概念を知ったことは、
じぶん自身の思考の形成において、
けっこう重要だったやもしれない、ってえのをね、
このごろふと思いついたんだった。
メタファーとは、比喩の種類のうちの
「暗喩(隠喩)」のことでして、そして、
ぼくが初めてこのことばを知ったのは
Mr.Childrenの曲の歌詞だったけれども。
(2004年リリースのAL「シフクノオト」収録の
『Pink~奇妙な夢』より。)
その後、村上春樹さんの小説を読みながらこの
メタファーについて考えたり、また、
吉本隆明さんの講演の中で、吉本さんが
メタファーについてお話しされていて、
そのことからまたあらためて考えてみたり、
というのを経て今へと至る、みたいな感じなのですが。
たとえば、ぼくは子どものころ
国語の授業が大の苦手で、つまり、
文章を読むのが苦手だったと言える。
それでも、ぼくが二十代半ばごろになり
あるきっかけによって読書をするようになって、
それから、読書が
ぼくの趣味のようになっていった、
というのもね、いわば
「メタファー」という概念を知ったから、
とも言える気がしているの。
読書をすることにおいていちばん大切なのは
「理解」だと思っていた。
でも、メタファーという考え方を知ってからは
「理解」もとても大切ではあるのだとしても、
読書、つまり、文章を読むことは
それだけじゃあないとも思うようになった。
修辞技法における「比喩」の種類のうちの
「直喩(明喩/シミリ)」は、
「〜のように」等の語句を使いながら
ある物事を別の物事へと置き換えて説明している。
そして、「暗喩」は
「〜のように」等の語句は使われずに
ある物事を別の物事へと置き換えて説明していて、
って考えると、文章には、
「〜のように」等の語句が使われている文章と
「〜のように」等の語句が使われてない文章があり、
前者は「直喩」、はたまた、後者のケースでは、
「比喩が使われていない文章」と
「メタファー」の二種類に分けられる。
と考えてみた場合にね、その文章を読む人が
「比喩が使われていない文章」なのか「メタファー」なのか、
を完全に把握するって、じつは
けっこう困難だとも思うの。
つまりはさ、あるときには
「比喩が使われていない文章」のことを
メタファーだと勘違いしてしまったり、
逆に、「メタファーの文章」のことを
比喩が使われていない文章、つまり、その文章を
比喩だと気づけないこともありうるけれども。
ぼくは、あらゆる
「〜のように」等の語句が使われていない文章を、
「メタファー」だと考えてしまってもよいのではないか?!
と思っている。つまり、それは
メタファー的な「想像」だと言えると存じますが。
いや、でも、このことはね、たとえば
その文章を書かれた作者の方が、
そういうふうには解釈してほしくない、
と思われるような、勝手な想像による解釈はよくない、
とも思うのですが、けれども、基本的には
その解釈の理屈がはっきりとしているならば、
メタファーの想像による創造的な解釈は、
してもよい、と、ぼくは考えている。
このうえのところでね、
読書をすることにおいていちばん大切なのは
「理解」だと思っていた、と申しあげましたが、
メタファーという概念を知ってからは、
読書において、ほんとうのほんとうに
いちばん大切なことは、「理解」よりも
「想像」及び「創造」だと思ったんだった。
「理解」とは、ある意味では
不自由にも感じられるけれど、
かたや、「想像」や「創造」とは
とっても自由なのだとも思えるし、つまり、
むつかしいけど、おもしろい、
って思うこともできるやもしらない。
「メタファー」という考えを知ってからはね、
あらゆる物事において、
「理解」だけじゃあない、と思うようになって、
それから、ぼくは
読書をできるようになった、
って、今、あらためて考えたんだった。
令和6年8月31日