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バッハの旋律をひとり聴いたから。(読書でしか救われない_mix)

昨日のブログでは、読書に関して、
読書によって救われる資質、
というものを持っている人が居て、
つまり、そのような人が本を読む、
みたいなことを申しあげました。

読書をすることによって、たとえば、
知識が増える、とか、
語彙が増える、とか、
思考力が養われる、とか、
何かを学ぶことができる、とか、
というのが言われると思うけれども。
ぼくは、それらのことって、ある意味では
副次的なものだと思っている。
つまりはさ、読書の本質とは
知識や語彙や思考や学ぶことではなくって、
「救われる」だと思うのよね。

読書によって救われる人が、
本を読む、この逆を言うとするならば、
読書以外に救われる物事がある人は、
本を読まない、つまり、その人は
本を読む必要性がない。
さらに逆を言うとすると、
本を読む人とは、読書以外には
救われる物事が無いのやもしらない。
だからこそ、本を読む。
ぼくなんかもそうなんだと思うけれども、
読書でしか救われない人が、本を読む、
というふうだと思うですが、
どうなのでしょう?????

かつて本を読まなかったぼくが思うには、
昨日もすこし申したですが、本って
敷居が高い、と申しあげますか、つまり、
高尚なイメージがあるようにも思うけど。
実際に本を読むようになった今思うのは、
本とは、そういうような
高尚とかでは無いとも思う。
いや、おそらくは、
高尚な本もたくさんあるとも存じますが、
ぼくはそのような本はぜんぜん読まないから。

ぼく自身のイメージとしては、読書って、
マンガを読む、映画やドラマを観る、
興味深いテレビ番組を観る、そして、
おもしろい話を聴く、みたいなことと同じであって。
でも、読書だからこそ、
感じられる事象がある。

高尚のことで申しあげますと、
たとえば、美術館へ行くことも
高尚だと思われるひとつであると思われる。
ぼくは、デザインの専門学校に通ってから
美術館へも訪れるようになったですが。
ぼくが好きなのは、とくには、現代アートでして。
美術って、難解さもあるけど、でも
おもしろかったり、たのしかったり、
興味深かったりもするんだから。
ぼくとしてはね、そういうような
美術館へ行くこととは、たとえば、
遊園地へ行くことと似たようなものかなあ、って。

ぼく自身はまったく詳しくは無いのですが、
たとえば、クラシック音楽もそのような
高尚のもののようにも思うけれども。
でも、たとえば、
バッハやモーツァルトの音楽を聴いていると、
知識は無いながら、なんだか、よいなあ!
とも思えたりもするから。
それはさ、つまり、
クラシック音楽もまた、
高尚とかそういうんではないとも思える。

けれども、読書と同じようにして
美術やクラシック音楽もまた、
美術だからこそ、及び、
クラシック音楽だからこそ、
感じられる事象があり、なおかつ、そこには
「救われる」こともあるのかもしれない。

つまりはさ、
本のことばをひとり読んだから、
美術の色をひとり眺めたから、
バッハの旋律をひとり聴いたから、
こんな心になってしまうだろうか?

令和6年10月9日