親が死んだらどうなるか~兄弟の存在~
親が亡くなったその日、残されたものはどうなるのか。
今日は、私の兄弟について書きます。
私には、兄弟がいます。兄と弟の三人兄弟。
子どものときは、煩わしさも感じていました。兄弟がいると物理的に空間も狭くなるし、色んなことに我慢を強いられるし、もっとワガママに自由にできたらいいのに、早く家を出たいな、とすら思っていました。
今考えるとなんて贅沢なんでしょうね。
その、子どものときは良さが分からなかった兄弟の存在は、大人になってからじわり、じわりと感じることが多くなりました。
居酒屋で兄弟そろって飲んだ日には、大人になった自分たちを実感できたし、兄が私のどうしてもやりたいことに支援してくれたり、兄弟が結婚式で病気が進んでエスコートできなかった父の代わりになってくれたり、今現在では弟が私たち夫婦の家づくりを手伝ってくれたり、と何だか兄弟ありきだなと思うのです。これまで頻繁に連絡を取り合ったり特別仲が良いというわけではなかったんですけどね。まぁ、世間一般にそんなもんかな。
そして母が入院して、亡くなって、
「ねぇ、お母さん、もしかしてこのために三人産んだの?」
と思いたくなるようなことがたくさんありました。
人が一人亡くなる、というのは想像以上に大変なことで、手続き・手続き・手続きの嵐・・・。これを分担できることの有難さ、と言ったらもう。
「三人産んでくれてありがとう。」って生きている間も何度か伝えたけれども、本当に思いました。やることが多すぎるんだもん!←そこ
哀しみを感じる暇がない、とは言え、ふっと押し寄せる喪失感、虚無感、何とも言えない哀しみ、というのはあります。
それを最も感じたのは、お通夜の日とお葬式が終わってから。
私たちは親戚が少ないのですが、お通夜は兄弟と叔父叔母従姉妹たちで過ごしました。気が抜けた瞬間、
「あぁ、この中で母親を亡くしたのって私たちだけなんだな」
と思いました。
母親を亡くした人の気持ちって「母親を亡くした人」にしか分からない。
おばあちゃん(母の母親)はまだ生きているので、叔母さんもこの気持ちは分からないだろうなぁ、なんてちょっと自分のひねくれた思考にうんざりもするんですが、正直にそう思いました。
時間が経った今でも、なんだか、頑な思うんですよね。慰めてくれたり、励ましてくれる人には本当に悪いんだけど、
「父親」じゃなくて「母親」。
「祖父・祖母」じゃなくて「母親」。
「兄弟・姉妹」じゃなくて「母親」。
「配偶者」「子」ともまた違う。
「母親を亡くす」ということについて。
誰かを亡くした悲しさなんて比べられるものじゃないし、比べるべきものでもないですが、この経験をしているのはこの中で自分だけ、この本当の気持ちを分かってくれる人はいないと思うことがあります。
それだけ、私にとっては「母親を亡くす」ことは大きな喪失感がありました。兄弟の存在は、この「母親を亡くす」という、同じ哀しみを抱えたものという意識から本当に居てくれてよかったなと思いました。孤独から少し救われた気がします。
母が生前、
「兄弟仲良くね。ケンカしないでね。」
と言っていました。
相続争いとか、なんだかんだ、大人になったら色々あるからだと思います。
だから、母にはこう言いたい。
「私たち三人兄弟が力を合わせて乗り越えられるように、色々残して逝ったんでしょ!わざとでしょ!」と。
安心してね。
おかげさまで、めっちゃ絆が深まったよ!
それから、改めて
「三人産んでくれて、心からありがとう」
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