江戸のお廻りさん【新徴組】の誕生と清河八郎
山形県鶴岡市、湯田川温泉 隼人旅館の庄司庸平です。
突然ですが、【新徴組】をご存知でしょうか?
【新選組】ではありません、【新徴組】です。
新徴組は幕末に江戸市中を巡回警備していた浪士組。
現在、交番勤務の警察官をいう【おまわりさん】の語源にもなったという新徴組。
私が営んでいる隼人旅館は、江戸の終わりから明治の初めに、この新徴組の本部として使われていた時代があります。
なぜ、江戸から遠く離れた湯田川温泉、隼人旅館は新徴組の本部になったのでしょうか?
今回は新徴組の誕生と、新徴組・新選組の生みの親【清河八郎】のお話し。
維新回天の魁 清河八郎
清河八郎は天保元年(1830年)10月10日出羽の国庄内藩清川村(現庄内町 清川)に生まれ育ち、18歳で江戸に上りました。
当時の最高学府に学び、剣は北辰一刀流を修めた後、若干25歳にして学問と剣術を教える「清河塾」を開きます。当時、江戸市中で学問と剣術を一人で教える塾は清河塾だけでした。
万延元年(1860)桜田門外の変が起こり、これを契機に国士を志し、幕臣・山岡鉄太郎(鉄舟)らと「虎尾の会」を結成します。目的は尊皇攘夷(天皇を尊び外国勢力を追い払う)でした。
同年、虎尾の会のメンバーらが、米国領事官・ハリスの通訳ヒュースケンを殺害し、清河八郎は幕府に監視されることになります。
町人斬り事件
文久元年(1861年)、清河八郎は日本橋で挑発してきた町人を「無礼討ち」(江戸時代の武士に認められた殺人の特権。奉行所に届け出て正当性が認められれば無罪)にしますが、奉行所には届けずにそのまま逃亡した為に単なる「町人斬り」の指名手配犯となってしまいます。
しかし近年の研究により、実はこの町人は町奉行所の捕吏(ほり:同心・下引・岡引)であることが、町奉行所側の内部資料から判明しました。
町奉行所は大勢の捕吏をもって、清河八郎を捕まえようとしましたが失敗。この失敗を隠ぺいするために、清河八郎を「尊王攘夷過激派容疑者」から「町人斬り容疑者」にすり替え、全国指名手配としたのでした。
清河八郎は逃亡中の京都にて建白運動(政府に自分の意見を申し立てること。)を精力的に行い、薩摩藩の同士を集い勤皇のもとに挙兵する策を押し立て九州遊説につきます。
しかし、文久2年、薩摩藩の実権を握る藩主の父・島津久光が京都周辺に居た同藩の尊王攘夷派を一斉に弾圧・粛清した「寺田屋事件」で、その画策は頓挫し、虎尾の会もばらばらになってしまいます。
国家急務三事
江戸に戻った清河八郎は幕府に【国家急務三事】として建白書を提出します。
これは、
・攘夷断行
・大赦発令(国事犯の罪を免除する)
・天下英才教育(文武に秀でたものを重用する)
という内容のものでした。
幕府は、清河八郎の献策を採用し、将軍上洛の護衛として【浪士組】編成が許可されます。取り次いだのは清河八郎の同志、尊王攘夷派の幕臣・山岡鉄太郎(鉄舟)。その献策は松平春嶽を経て秘密裏に幕府にもたらされたのでした。
これにより、獄中の志士・同志たちへの大赦が出され、清河八郎も町奉行所へ出頭し「無礼人斬り」を届け出て赦免を申し渡され、幕府より【浪士取扱頭取】に登用されます。
浪士組編成
文久3年(1863年)2月、将軍徳川家茂上洛の露払い役として236人の組士が選抜され、京都へ向けて出発します。
一行は2月23日に京都壬生村に到着して新徳禅寺や町屋に分宿。翌24日、清河八郎は浪士隊を新徳禅寺の本堂に集め、浪士組を集めた本当の目的は将軍警護ではなく、尊王攘夷の為だと熱弁をふるい、尊皇攘夷の大義を説いて朝廷宛の攘夷建白書に署名を求め、同意した二百人余りの手勢を手中にします。(後の新選組士、芹沢鴨、近藤勇、土方歳三らも署名)
その中から弁舌と胆力の据わった腹心の同士6人を選んで、当時国事参政を司る学習院に上奉文を持参させ、その結果、29日に学習院から孝明天皇の御製が添えられた攘夷の勅諚を賜り、倒幕の準備が整ったのでした。
その頃、生麦事件(薩摩藩によるイギリス人殺傷事件)の賠償金を求めてイギリス軍艦が江戸湾に来航。清河八郎は、攘夷実行(横浜鎖港)の為、江戸へ戻ることを朝廷に願い出て3月3日に許可されました。こうして浪士組は京都へ来てわずか10日間で、江戸に帰府することが決まります。
このとき近藤勇、土方歳三、沖田総司ら試衛館の面々と芹沢鴨ら水戸藩士らは京都の天皇や将軍の警護が浪士組の最優先任務であり、それを放棄して江戸へ向かうのは納得できないと主張して清河八郎と対立、約20名が京都に居残り、京都守護職の会津藩主・松平肥後守預かりとなりました。事実上、浪士組の分派としての【新選組】(当時は壬生浪士組)の誕生です。
清河八郎暗殺
江戸に戻った浪士組は「奉勅攘夷」を掲げてイギリス艦との対決を主張しましたが、幕府から攘夷命令が出ず、合法的には動けずにいました。
文久3年4月13日、清河八郎はこの日、上ノ山藩士・金子与三郎宅に招待されていました。出かける前に隣に住む幕臣・高橋泥舟宅に立ち寄り、扇に二つの和歌をしたためます。
「魁がけて またさきがけん 死出の山 まよいはせまじ 皇の道」
「くだけても またくだけても寄る波は 岩かどをしも 打ちくだくらん」
この句を不吉と感じた高橋泥舟は出かけるのをやめるように説得しましたが、清河八郎は約束だからと迎えの駕籠に乗って出かけました。
清河八郎が金子宅を出たのは日が暮れてからでした。帰りは駕籠ではなく、ひとりで歩いて帰ります。そして、麻布の一ノ橋を渡り終えたとき、幕府の放った刺客・佐々木只三郎、速見又四朗らによって暗殺されます。享年34歳。攘夷決行予定の2日前のことでした。
また、この頃、清河八郎は自らの死を覚悟してか、故郷の両親に遺書めいた手紙も送っています。
清河八郎暗殺の背景には、浪士組の起こしたある事件がありました。
その事件とは、浪士組を語って金を払わず豪遊した偽の浪士組士らを斬首し、さらし首にするという事件です。
イギリスとの開戦が迫るなか、攘夷を主張して「私刑」を行使し始めた浪士組の存在は幕府にとって大きな障害になりかねず、指導部を解体して浪士組を改編しようという幕府の意図により清河八郎は暗殺され、幹部は一斉に捕縛。山岡鉄太郎、高橋泥舟ら浪士組の幕府担当者は総罷免されていきます。
新徴組の誕生
文久3年(1863年)4月15日、幕府は浪士組を再編成し【新徴組】と名付け、御府内(江戸)非常臨時廻りの任に就いていた庄内藩主・酒井繁之丞忠篤に預けました。
庄内藩では新徴組を江戸市中の治安維持を担う軍事力として位置づけ、新たに組士の募集も行われ、水戸藩脱藩者の一団、自宅から通勤する外宅組なども加わり、総勢169人になったといいます。
新徴組の任務は江戸の治安維持であり、不審者・狼藉ものがあれば捕縛し、手に余れば殺傷することも許されていました。
組士の士気も高く、新徴組は江戸の治安維持に貢献しました。
新徴組を讃える当時の発句に「庄内藩 鶴ヶ岡松(徳川家)を堅固に守るなり」
江戸歌謡に「酒井左衛門様お国はどこよ 出羽の庄内鶴ヶ岡 酒井なければお江戸は立たぬ お廻りさんには泣く子も黙る」(小山松勝一郎『新徴組』)
とある一方で、「カタバミ(庄内藩主家紋章)はウワバミ(大蛇)よりも恐ろしい」(千葉弥一郎回顧録)
「恐ろしき者といふなる新徴組」(幸田露伴『風流仏』)と江戸市民から恐れられました。