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才を愛する


#おじいちゃんおばあちゃんへ

母方の祖父は宮司の次男として生まれ育った。父親は大変厳しく、母親は黙ってついて行くタイプだったと言う。父親は結核を患って、寝たり起きたりの生活を長く続けていたらしい。母親は心臓が弱く、祖父の中では「いつも黙って座って繕い物をしている」イメージだったそうだ。

祖父によると、父親は賢明だった。結核の予防に細心の注意を払い、家族内に一人も結核患者を出さなかった。また、病床に臥しながらも書物をよく読み、早期に「この戦争(第二次大戦)は早晩日本が負ける。男は皆兵隊に取られる。お前達、教師になれ。銃後で、国のために将来の人材を育てる方にまわれ。」と二人の息子をどちらも師範学校に行かせた。当時はまだ教師の召集はなかった。

祖父が幼い時、「外に遊びに行ってくる」と玄関で大声を上げると、父親が寝床からちゃんと下駄を履いていけ、と言った。ヤンチャ坊主だった祖父は両手に下駄をはめてカンカン鳴らし、「履いとるで!」と返事をして飛び出していった。父親の側にいた祖父の兄が「アイツ、鳴らしとるだけで履いとらんに違いない」と言ったら、父親は笑っただけで何も言わなかったそうだ。

祖父の母親は大人しい人だったが、なかなか機転のきく人だったようだ。ある時、祖父が母親に「黒砂糖を買ってきておくれ」と頼まれた。少し離れたその店で、ガサガサした紙袋に入れてもらう。帰途、祖父は「少しだけならバレない」と当時は貴重だった黒砂糖を取り出しては舐め、取り出しては舐めながら自宅に帰って来た。袋の口はヨレヨレになっており、つまみ食いしたのは一目瞭然である。恐る恐る、しかし元気よく「買うてきたで」と袋を渡した祖父に、母親は「おおきに。お駄賃に黒砂糖あげよか?」と言った。舐め過ぎてお腹いっぱいだった祖父は思わず「もうええ」と言ってしまったという。

厳しく叱るばかりが教育ではない、とこんな明治の昔に実践していた祖父の両親には、感心させられる。ユーモアもあり、暖かい愛情を感じる。祖父の「才」を愛した、と言えるだろう。祖父は、子供の頃は「肺病の子」と言われて石を投げられた事もあった、と涙ぐみながら話してくれた事もあるが、常にとても優しかったのは、こういう両親に育てられたからかも知れないなあと思う。こんな素敵な人達と血が繋がっていることがなんだか嬉しい。


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