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ベストパートナー

今でこそ、私は夫の事が大好きであると100%の自信を持って言えるが、少し前までは物凄く鬱陶しい存在としてとらえていた。失礼千万であるが、私の中では夫というものは"いつまでも反抗期の息子"のようで、手のかかる、自分の思うようにならないものだ、と思っていた。

何故私の夫に対する意識が180°変わったのか。
それは偏に『私の"自分"に対する意識が変わったから』だと言える。夫は今も昔も何も変わっていないのだから。

昔の私は、『片付けのキチンと出来る夫』である事や、『私をベタベタに甘やかしてくれる夫』、『私のする事を褒めてくれる夫』を渇望していた。
つまり全てにおいて『夫』という、『私の外側にあるもの』に変化を求め、これっぽっちも『私の内側にあるもの』を変化させようとしていなかった。エゴイスティックな事この上ない。

例えば『片付けのキチンと出来る』というのは私側から見た基準である。夫側からすれば、『キチンと』しているのかも知れない。それを「そんなんじゃキチンとしてるって言わない」というのは、夫の考え方を一方的に否定し、私の思う『キチンと』の基準に合わせろ、という暴論である。まるで専制君主だ。
夫の言う『キチンと』を私が好きか嫌いか、は夫には全く関係のない事だ。『私の内側』だけの問題である。

『甘やかしてくれる』事を求めるという事は、普段自分が『甘えられない』状況に自分を置いている、という事の裏返しである。他でもない『私』が『私』に厳しくし過ぎなければ、夫も含め『私の外側』に『甘やかしという名のまやかしの癒やし』を求める事はないだろう。『私』が『私』を十分受容しているので、『外側』にそれを求める必要がなくなるからだ。

『褒めてくれる』のを求めるというのは『他己承認』を求めていると言う事になる。
これも先に述べた事と同様に、『私』が『私』を認められていないから、『外側』にその自信のない、グラグラした『私』を支えて欲しい、と求めている訳だ。
『私』が『私』を認めていれば、支えを『外側』に求める必要はない。誰の支えがなくても、『私』だけでしっかり地に足を着いて立っていられる。

これらの事実に気付くまで、私は長い長い時間を要した。だがその間も、夫は少しも苛立ったりせず、ずっと側に居てくれた。
衝突する事も沢山あったけど、夫には私を否定しようとか、思い通りにしようとかいう思いは全くなかったと感じる。一緒に人生を歩んでいく人間として、大事にしようと思っていてくれたのだと思う。

思い返せば、そう感じられる言動が幾つもあった。その時はなんとも感じなかったけれど、今は感謝の念でいっぱいである。

整理整頓の苦手な所は玉にキズだけど(これも私の思い込みか?)、出会えて良かったと思っている。夫もそう思っていてくれるかな。そうだと良いな。まあそれは『夫の問題』だけど。

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