4E
その日の朝は冷え込んだ。
といっても関東の冬は暖かいと思うが、高齢のお客様には堪えるようだ。こんな日の来客数は、ぐんと少なくなる。
商品整理と陳列什器の拭き掃除に勤しんでいると、夫婦と思しき高齢の男女がやってきた。
女性は車椅子に乗っている。押しているのは男性だが、彼も片方の脚を僅かに引きずっている。二人とも八十歳を優に越えているだろう。思わず関西にいる舅姑の姿がダブる。
「あのう、靴べら貸してもらえませんかな?」
試着用の靴べらは、靴売場にいくつか置いてある。一本を差し出すと、男性は恐縮した様子で受け取り、女性に渡した。
「どうぞごゆっくり」
とだけ声をかけて、レジに戻った。
随分経った頃、レジ周りの掃除をしていると
「あのう」
と背中から唐突に声をかけられて振り向くと、先程の男性がスニーカーを手に立っている。まだいらっしゃったんだ、と少し驚いた。三十分は経っているだろう。
「はい、失礼しました。お決まりですか?」
笑顔で返すと、男性はふいに女性の足元を指差し、
「これ、4Eかな?」
と仰った。
そう言われても、見た目では靴のサイズは分からない。そんな器用なことのできる靴の神様みたいな人がいたら、是非ウチの売場で働いてもらいたい。
「生憎、見た目では判断出来かねます。普段はどれくらいのものを履いていらっしゃいますか?中敷きにメーカーの表示があるかも知れませんので、一度お脱ぎ頂ければ・・・」
そこまで言った時、男性の態度が豹変した。
「こんな足で、脱げるわけないだろう!4Eは4Eなんだよ!アンタ靴売ってる癖に、見た目で分からないのか!いい加減にしろよ!」
理不尽を絵に描いたような激しい叱責の言葉が、この背の丸い男性から発せられたことに驚いて、思わずキョトンとしてしまった。
よく誤解されているのだが、4Eという表記は統一基準がある訳ではない。
メーカー各社がそれぞれ『これがウチの4Eサイズ』と決めているに過ぎないから、A社の4Eがキツイと感じてもB社の4Eがブカブカに感じることもある。何センチ、というのは問い合わせれば分かるのだろうが、売る方はそこまで把握していない。
説明すると殆どのお客様は
「結局、履いてみないと分からない、ってことね」
と納得して下さるのだが、彼はそうではなかった。
「そんなこと知らねえよ!じゃあなんでみんな4Eって書くんだ!え!」
そう仰られてもメーカーの都合だから、どうしようもない。
このままではサンドバッグになるばかりなので、話題の転換を試みた。
「幅の広いものをお探しですか?大体は4Eになっているんですが・・・」
しかし、これが火に油を注いだ。
「大体ってなんだよ!違うのもあるんなら、なんで持ってこないんだよ!アンタ、バカにしてんのか!」
バカにはしていないが、辟易はしている。大きな声に、周りのお客様がチラチラと男性を見だした。マズイ状況である。
「ちょっとお待ちくださいね」
出来るだけ優しく言いながら、商品を探す。確か某社の靴で5Eと銘打ったものが一種類だけあった筈だ、と思いながら中敷きを確認しつつ探していると、男性が更に大きな声でこう浴びせかけた。
「アンタ、バカか!4Eじゃダメって言ってんのに、なんで中敷きなんて見てんだよ!意味ないことすんな!」
流石にムカついたが、
「この会社の商品に5Eのものがございますので、ただいま確認しております。少々お待ち下さいね」
内心『うるせえよクソジジイ』と呟きながら、口では穏やかに言う。
漸く5Eの商品を探し出して持参したが、男性は首を縦に振らなかった。
異変を察知したYさんが、レジから心配そうにこちらの様子を窺っているのが見えた。
声をかけるタイミングを見計らってくれているのだろう、作業をしながら何度も目線を合わせてくれる。
目で『大丈夫です』と返事した。
結局男性は某社の4Eのスニーカーを買うことに決めた。レジにはYさんが一緒に立ってくれる。
それにしても奥さん、こんな夫を窘めないのかな、と苛立ち交じりに車椅子に目を向けてハッとなった。
女性は夢を見ているような顔をして、ただ穏やかに微笑んでいたのである。
さっきまでは腹立たしいだけだった男性が、急に気の毒になってしまった。
「大丈夫だった?酷い言い方だったね。ああいう時は任せてくれて良いんだよ。無理しないでね」
お見送り後、Yさんがそっと声をかけてくれた。
「いえ、ありがとうございました。心強かったです。あの人、きっと不安で寂しいんですね。いろいろ思うようにいかないことが多くて、苛立っているんでしょうね」
そう言うと、Yさんが
「そうだね。でもあんな風に言うと、結局自分が嫌になっちゃうと思うんだけどな・・・なんか、悲しいね」
と眉を曇らせた。
鼻の奥が少しツンとした。