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期限は未設定

先日の演奏会の休憩中、似たような年代の三人でこんな話題になった。
「いつまで続けます?」
最初に問いを発したのはSさん。私の夫と同い年で、この楽団には十年以上いる。フルタイムのお仕事をなさっている。真面目で練習熱心な人で、頼れる楽譜係のリーダーでもある。
「うーん、私は七十代までかな」
答えたのは私と同い年のAさん。マイ楽器をこよなく愛する、フットワークの軽い人である。
私はこう答えた。
「『やめようと思う時』まで」

既に同年代でも「楽器を置くことにしました」「聴く方に専念することになりました」と言う連絡をもらうことがちょくちょく増えてきた。本人にはそれなりの理由があるのだろう。コロナでが楽団が活動休止し、しばらく吹かないうちに気持ちが続かなくなった、という友人も何人かいた。
五十代半ばというと子供は成長し手は離れているけれど、親の事も気になってくる年代である。職場でもかなり上の立場になり、もうボツボツ引退が目の前にチラついてくる。心浮きたつようなことはプライベートでもそうそう起こらない。
自分の人生が徐々に「終息」に向かっているのを感じるような出来事が増え、「お遊びはもう終わり」という雰囲気にのまれていくのだろう。

Sさんは重い物を持つ仕事のせいもあり、最近ずっと腰をいためている。体力的にキツイと感じることが増えたそうだ。加えて遠い九州に高齢のご両親がいる。私同様、ご主人と交替で世話をしに帰ることもあるそうだ。
「この年齢になると、なかなかのんきに吹いてられないよね」
Sさんはため息まじりに言っていた。
Aさんは私同様、手にしびれが出ている。私は右手だが彼女は左手だ。私達は滑らかな運指の為にスケールをさらうが、左手は手首を回転させて身体の方に傾けることになる為、長時間やるといためやすい。彼女もストイックな練習をする人だからだろう。いろいろ工夫して手に負担がかからないようにしているが、取れないらしい。
「気力はもっても、体力が思うようにはならないと思わない?」
と苦笑いしていた。

最近は私もお二人同様、親の事や体力的なことで支障が生じている。それは自分の力ではどうしようもない事実だ。
楽器演奏を楽しみたいという思いはずっと持っている。だが、確かに若い頃のように何をさておいてもそれを優先することはもうない。燃え上がるような熱い思いと言うより、「心の奥深くにずっと横たわっている、あって当たり前の静かな欲望」とでも言った感じである。
「欲望」というと違うかもしれない。私にとって楽器を吹くことは日常であり、習慣である。歯を磨く、顔を洗う、風呂に入る…そういうのと近い。
やらなくても生きてはいけるけれど、やらないと気持ち悪い。「好き」なのかどうか考えるまでもない。やると心が満たされる。
それに伴って色々な人との関りが出来る。それは幸せで有難いことであるが、派生的な幸せである。ストイックに自分と向き合い、自分の音に集中する。音色は、音程は、呼吸は、それら全てに向かって神経を研ぎ澄ます時、「無」になれる。

合奏中に仲間と音をブレンドさせるため集中する時、自分が嫁であることも妻であることも、困ったお客様に手こずるスーパーのレジ打ちであることも、身体の調子が悪いことも、全部頭から吹っ飛んでいる。
ただの演奏する「吹奏楽バカ」になる。最高に心地いい瞬間である。
自分からこの楽しさを手放す気にはなれない。

そうは言っても、いずれ無理になる時はくる。多分、そう遠くない将来だろう。
師匠のK先生は
「『あの人、落ちたなあ』と言われる前に楽器を置きます」
と仰っていた。
先生はご商売だし、自分を冷静に客観視できるクレバーな方である。きっとご自分でいつ頃、という大体の目安は決めておられるのだろう。
私は自分が後悔なく「もう良い」と思える時にしようと思っている。先に期限を切ることはしない。
あるがまま、に任せたい。