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言えないよ

どうもお世辞を言うのが下手で困る。
接客業に従事しているから、毎日のように『今は言うべき時では』という場面に出くわすのだが、モゴモゴして言えないか、言えても顔がガチガチに強張ってしまったりする。
私なら歯の浮くような思いをしながら発しないといけない言葉でも、職場の先輩や同僚はサラッと嫌味なく、曇りなき笑顔を見せながらいうことが出来ている。
凄いなあ、とただただ指を咥えて見ている日々である。

自分の発する言葉にそこまで重きを置かず、全ての言葉が自分の腹の底から出たものではない、と割り切れれば、スラスラとお世辞を言うことも可能なのだろう。
そうは思えていないから、お世辞を言うのに躊躇いと苦手意識がある。悪いことをしているような気分になる。
なぜなのか、と考えると、色んな原因に思い当たる。

『嘘をつくことはいけないこと』という信条が、自分の中に強すぎるくらい強くある。そう育てられたんだろう。子育ての方針として、間違ってはいない。
一方で、嘘には他人を思いやる優しい嘘も、ついた方が良い嘘も存在すると頭では分かっている。しかしこの分別をするのがかなり苦手である。
病気で余命いくばくもない人に
「絶対元気になれるよ!」
などと言って励ますシーンはドラマなどでよく見るが、多分現実で同じような場面に遭遇したら言えない。
嘘だと知った時の、相手の落胆と怒りが怖い。何より自分を裏切った自分が情けない。

母の実家が京都、というのも大きく影響していると思う。
京都ではこんな具合だ。
例えば自宅で子供がピアノを練習している時に、顔を合わせた隣人が
「○○ちゃん、ピアノ上手にならはったねえ」
と声をかけたとする。
他府県なら言葉通りの褒め言葉だろうが、京都は違う。
多くの場合、
「ちょっと、音うるさいよ」
という『苦情』なのである。
自分は他家の批判などするような狭い料簡の人間ではない、と匂わせつつ、遠回しにクレームを入れるのが京都の人のやり方である。
聞く方は神経を研ぎ澄まして、敏感に相手の言葉に反応しなければならない。
近所づきあいが面倒くさい、といわれる所以である。

穿ち過ぎでは、と言う方もいるだろう。勿論例外も多くいるだろうが、少なくともウチの母は、京都人そのものだった。
だから発言の内容だけでは、母の本音を探りかねた。それは子供にとって、かなり不安なことだった。
知らず知らずのうちに、常に相手の顔色を窺い、行動を注視し、そ人の本音がどこにあるのか、推察する癖がついた。

お世辞はその場のご愛敬、お互いが気分良くいられるなら言った方が良いじゃないか、と頭では思う。
しかし発しようとすると、どうしようもない罪悪感がこみあげてくる。子供の頃から変わらない。
この罪悪感が喉を塞ぐ。言葉が出なくなる。せいぜい愛想笑いをするのが精一杯である。

お客様がレジに帽子をお持ちになり、購入前に被って
「どう?いいよね?」
と見せて下さることは日常茶飯事である。
「よくお似合いですよ」
とスラスラ言えれば良いのだが、似合っていないとウッと詰まってしまう。
「よく・・・お似合い・・・です・・ね」
強張った愛想笑いと共に、言葉を絞り出す。
しかしお客様はそんなことなど気にしておられないようで、
「じゃ、これ」
と百パーセント機嫌よく、お買い求めになる。
良かった、こちらの戸惑いがバレなかった、と内心胸を撫でおろしつつ、複雑な気分でお見送りする。

思うに、お客様は最初から、こちらの褒め言葉なんか耳に入れる気はない。
適当に相槌を打たれようが、作り笑いで同意されようが、関係ない。既に自分自身で『似合っている』と思っている。
店員に確認するのは、鏡に話しかけるような気分でやっておられるのだろう。
お世辞を言う方も、普通はたいして気にしていない。商品が売れて、お客様が気分良く帰って下されば、ウインウインだ。そんな小さな嘘の一つや二つ平気で言えてしまう、という店員が殆どだと思う。

真っ正直に過ぎる、といえば聞こえは良いが、『遊び』の部分が少なすぎるとも言える。
自分に正直に在りたいとは思うが、もう少し融通をきかせたいものだ、とも思う、仕事に向かう朝である。







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在間 ミツル
山崎豊子さんが目標です。資料の購入や、取材の為の移動費に使わせて頂きます。