見出し画像

まんまの自分

自分のことを大したもんだ、凄い奴だと思っているから、自分の情けない現状に腹が立つ。恥ずかしくなる。
自分は本当はこんな奴じゃない、と言い訳したくなる。その裏には、自分は現状よりも遥かに凄い人間なのだ、逆に言うと現状の自分はポンコツなのだ、という気持ちが少なからず入っている。
『自分は至らない人間だ』とか『お恥ずかしいことを』という言葉は、一見眩しい謙譲の光を放っているように錯覚してしまう。
しかしその実、こんな物凄く醜いエゴが覗いている。

そこを素直に認められれば極めて楽に生きられるのに、悲しいかな、こういう人に限って絶対に認めようとしない。一生懸命現実から目を背け、『そんなのは私じゃありません』とばかりに取り敢えず蓋をして、見ないようにしている。
しかしどんな人でも、人間は心の奥底で思っていることを全く表面に出さない、などということは出来ない。例外が居るとしたら、ゴルゴ13みたいに超一流のスナイパーとか、めちゃくちゃ訓練された特殊部隊の人間、スパイなどの、ごくごく限られた人達だけだろう。
或いは稀代の詐欺師か。

だから、自分の至らない点や不得手なところばかりに着目するのは百害あって一利なしである。
何かをなし得て、『おめでとう!凄いね』と言われているにもかかわらず、
『いや、こんなことは大したことじゃないんです』
『いいえ、たまたまです』
なんて答えを返すのは愚の骨頂だ。精一杯の称賛を送ってくれた相手にも失礼というものだ。
『ありがとう、嬉しいです』
『はい、また頑張ります』
そういう返事をすることが出来れば、相手も嬉しい。自分も相手の喜ぶ顔を見て幸せな気持ちになれる。一石二鳥じゃないか。
なのになぜ過剰にへりくだるのだろう。
謙譲の精神がダメだ、なんて言わない。ただ『やり過ぎ』はいけない。
へりくだることで相手を愚弄したり、自分を傷つけたりするのは明らかに『やり過ぎ』である。

以前の私は『やり過ぎる』人だった。でも『へりくだることは良いことだ』と思い込んでいたから、
「いえいえ、大したことじゃないんです」
と返した時に相手が困惑した様子を見せると、どうしてだろう、と自分も戸惑っていた。
奇妙なのは、そんな相手の様子を見る度に、不思議な安心感が自分の胸に広がっていったことだった。
当時はその安心感の出どころがよくわからず、ただその感情に戸惑っていただけだったが、今ならわかる。

『凄いね』というのは、相手の自分に対する『評価』である。
その『評価』に信頼を置いていない。もっと言えば、自分のことをその『評価』に値する人間だと思えていない。つまり自己評価が低い、ということである。
そして相手がある日突然、その高い『評価』を翻すんじゃないか、とビクビクしている。それは無意識ではあるが、『相手の判断基準は自分がコントロールすることは出来ない』という現実に対する恐れの発露である。
最初から拒んでしまえば、この恐れから逃れられるから、へりくだる。
この恐れもやはり、自己評価の低さが成せる技としか言いようがない。

他人が自分を酷評しようが絶賛しようが、『自分がどういう人間であるか』には全く関係がない。
自分は『まんまの自分』でしかない。それを高く評価するか、低く評価するかはその時々の相手の『感性』に左右されるのであって、『そういう現実』があるのではない。どう考えるか、どういう言葉を吐くか、は相手の自由だ。こちらの範疇にはない。
素直に認めて受け容れるべきは、そんな頼りない無責任な他人の評価なんかではなく、『まんまの自分』の姿である。
他人の評価なんて、オマケみたいなものだ。あっても良いし、なくても良い。酷い言葉には耳を塞いで良いし、嬉しい言葉には素直に喜び、『喜んでいます』と相手にそのまま伝えれば良い。
『私は本当は○○な人間なんです』
なんて、わざわざ伝える必要はない。それは相手への否定であると同時に、自分への否定でもある。
止めた方が良い。

自分も通ってきた道だけど、他の人の妙にへりくだり過ぎた文章などに接すると、心がざわついてしまう。そんなことしなくて良いのに、と思う。
まだまだ他人の『評価』に敏感に反応してしまう私が居るようだ。
私が『まんまの自分』を完全に認められる日は、もう少し先になりそうである。










いいなと思ったら応援しよう!

在間 ミツル
山崎豊子さんが目標です。資料の購入や、取材の為の移動費に使わせて頂きます。