どんとこい!
先日京都に行った際、両親のセカンドハウスで母と会ってきた。
姑の世話に行く時にはいつも、この家を使わせてもらうことにしている。祖父母亡き後母が財産分与でもらい受け、建て直した家だ。
姑宅からほど近く、最寄り駅から徒歩五分圏内。スーパーやコンビニ、ドラッグストアもすぐで大変便利なところである。その割に周辺は静かでゆっくり眠ることが出来るから、おおいに有難い。
合鍵を貰っているのでいつでも行くことが可能だが、今回はここで母と一緒に一泊することにした。
母と会うのは実にコロナ第一波の流行以来だから、もう三、四年ぶりである。母は大変喜び、なにかと世話を焼いてくれた。
これまで何度か書いているが、私は母との間に永らく酷い確執があり、顔を合わすのがとても嫌だった。母からのLINEの文面に思わず眉を顰めることも、つい最近まで度々あった。
もう何年、母を避け続けてきただろう。しかし母を疎ましく思う自分の中にこそ『毒親としての母』が棲み続けていたのだ、と分かってからは、冷静に落ち着いて『母という一人の人』を観察することが出来るようになった。
そうする間にも葛藤はなくはなかった。だが今回は自分でも不思議なくらい心が凪いでいた。
帰り際も、気持ち良く『ありがとう』を言って別れることができた。
母が変わったわけではない。実際に二人で会話するうち、母は父への不満を並べ立て始めた。
父は気難しい所のある人だし、一日中顔を突き合わせていたらしんどいこともあるだろうとは思う。しかし悪く言ってそれが変わるのなら苦労しない。姉二人は認知症だし、娘は遠い。母も余程吐き出すところがないのだろうと思う。
今までの私なら、『ああ、また始まった。お母さんだって人のこと言えへんのに』とむかっ腹を立てていたが、今回は静かな気持ちで、黙って聞き役に徹することが出来た。そういう諸々の葛藤を全て超えたような気がしていた。
「最近、お父さんが私を叩くの」
話をするうち、母がこんなことを言いだした。
少し前の私なら色を成して、守ろうという姿勢を母に示す為、目の前で父に抗議の電話の一つもしたかも知れない。しかし今回私は冷静だった。
母の言う『叩く』の程度は。頻度は。理由は。きっかけは。何一つ明らかではない。
よくよく聞けば、叩いたのは一回だけ。しかも二年ほど前だという。母が父に口答えをしたのが気に入らないという事らしかった。
どんな理由があっても伴侶に手を挙げるのは許されない。でも、最初の母の発言と現実に起こっていることは随分ニュアンスが違う。
そんな事だろうと思っていたので、ふーん、そりゃあかんね、と言うくらいに留めた。
「アンタたちがお父さんに叩かれてる時、私身体はって助けてあげへんかったから、今その報いを受けてるんやと思ってんの」
母はそう言って、寂しそうに俯いた。
これは母のお得意の戦術である。
母はこっちが『お母さんも人のこと言えへんよ』と思っているのを敏感に感じ取っている。そして自分がその通りの人間であることも、無意識ではあるがわかっている。
でも、なんとか味方になって欲しい。一緒になって父を責めて欲しい。『報い』という言葉に、そういう心の動きがありありと見て取れる。
この年齢の自分が寂しそうにすれば、同情されるべき存在だというアピールが出来ることを本能的に知っている。そしてそのことについて怖いくらい無自覚なのである。
その事実を以前は悲しく腹立たしいものとして捉えていたが、今回はただ『母はそういうところのある人』として認識するにとどめることが出来た。
自分でも驚いた。今回は完全に母との間に境界線が引けたのである。
やはり母と時間的、物理的距離を置いたことと、どんな時も『私は本当はどうしたい?』と自分の本心としっかり向き合い続けてきたことが、奏功したのだと思う。
こんな心境になるまで導いてくれた全ての人々に、あらためて感謝の念を深くしている。
母の言動に意味づけをしていたのは私なのである。
『事実』をなんの意味付けもせず見れば、それはただ『現実に起こった事象』でしかない。
『父が母に手を挙げた』という事象は、例え一回きりだとしても由々しき『事実』である。しかし、それでいきなり父一人を責めることは間違いである。まして『報い』で母が叩かれるべきものでもない。母もまた、『事実』に無用な『意味付け』を勝手にしている。
母がそれに気づくことはもうないだろうけど、それはそれでいい。それが母の人生なのだから。
帰宅した翌日、父に電話した。
相変わらず言葉少なだったが、こちらの声を聞いて少しはホッとしてくれたろうか。
お父さん、お母さん。もう私、全部わかっているから、どんとこい!
そんな気分である。