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微かな痛みと共に

Iさんが退職したらしい、と小耳に挟んだのは、年も暮れようとしていた先月の終わり頃のことだった。
五月に入社した彼女が、最初に配属されたのがウチの売場である。時間帯が被っているから、というだけの理由で私が指導員を務めたのだが、いつまで経ってもとんでもないミスを連発する彼女に業を煮やし、チーフのDさんは三ヶ月で『ウチには向いてません。本人の為にも、早期に他の売場へ異動を』と副店長に訴えたのだった。

要請を受けて、副店長はまず衣料品担当チーフに打診した。
しかしその頃にはもう、彼女の噂はすっかりひろまっていた。その為、衣料品担当者の中にはハッキリと反対を唱える者が大勢いた。チーフは首を縦に振らなかった。
幸い三階の住居関連担当チーフが
「いいよ、年末年始は猫の手も借りたいから」
と二つ返事で請け負ってくれ、Iさん本人も部署の希望は特になかったことから、ここへの異動が決まったのである。
しかしウチとは比較にならない忙しい部署。大丈夫なのか、と密かに心配はしていた。

異動の話を聞いた当初はホッと胸を撫でおろしつつも、
『もっと上手くしてあげられなかったのか』
と落ち込んだりもした。
彼女を教えるのは並大抵ではない、とは分かっている。けれど何か上手い方法があったのではないか、自分の力量不足が彼女をしんどい目にあわせているのでは、とも思った。
「そんなことないって、僕でも絶対に無理だよ」
Dさんはそんな風に言って下さったが、心が晴れることはなかった。

異動してしばらくは、インカムから彼女の元気な声が聴こえてきていた。
その度に、
「上手くやっているのかな」
「根気強く教えてもらってるといいねえ」
「ウチより三階の方が向いていたのかもしれないね」
などとMさんやYさんと話しては、様子を伺っていたのだった。

一カ月ほど前、一緒にレジに入っていたNさんが、ふと思いついたように
「そう言えばこの前帰る時にIさんに会ったんですけど、物凄くやつれてましたよ」
と言ったのでビックリした。
「今ね、バックヤードの掃除とかばかりしているらしいです。インカム、聞こえてこないでしょ?それでですよ。『売り場に出ないで』って言われちゃったみたいです。落ち込んでました。辞めちゃうんじゃないですか」
と眉をひそめてため息をついた。
やはり、無理だったのか。
予想の範囲内とはいえ、Iさんが気の毒になった。

Iさんは恐らく境界知能である。
だから仕事を覚えるのが恐ろしく遅いし、ケアレスミスを多発する。
三階のメンバーも随分根気よく教えてはくれていたようだが、やはり限界だったのだろう。
本人が気付いていないと思われるだけに、非常に惨い気がする。
しかし現場は忙しい。たった一人に関わっていられない。
初心者のうちはまだしも、何か月も同じミスを繰り返せば、『向いてない』と判断されるのは当たり前の流れである。
ある意味、しょうがないことである。

ただ、本人が気の毒でならない。
折り畳み傘を畳んだり、ラッピングしたりは大変丁寧なIさん。
スピードはいつまで経っても出なかったが、仕上がりはどれも息を呑む綺麗さだった。
そんな彼女の得意分野を活かせる職場はウチにはなかった、ということなんだろう。それが『向いてない』ということなのだ。
彼女や周囲の人々が、そんな長所に気付いてくれる時が来ると良いのだけれど。

退職時、彼女はウチの売り場にも菓子折りを携えて挨拶に来たそうだ。
私は生憎休日だったのだが、
「『お世話になりました。ありがとうございました。在間さんにもよろしくお伝えください』って言ってたよ」
とMさんから聞いて、なんだか切なくなってしまった。

毎年、多くの人の背中を見送るけれど、こんなに切なかったことはない。
近い将来、もっと良い職場と環境が彼女に訪れますように。
今回のことを笑って思い出せる時が来ますように。
一生懸命だった彼女の姿を、微かな胸の痛みと共に思い出している。





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在間 ミツル
山崎豊子さんが目標です。資料の購入や、取材の為の移動費に使わせて頂きます。