私と私
先日、息子くらいの年齢の人に、少しばかりこちらを見下げた物言いをされたことがあった。
相手の年齢を考えると『若いから、そういうことをうっかり口にしてしまったのだろう』とすぐに思えはしたのだが、一方でどうもしっくりと納得していない自分がいた。『ああ、私はこんな若い子の発言に傷ついたのだな』と、一人で苦笑いをしてしまった。
最近は随分物事を外側からゆっくりと落ち着いて、感情抜きで眺められるようになってきたと思っていたので、そんな自分がちょっと意外でもあった。
『見下げられた』と感じた、ということは裏を返せば『相手の私に対する低い評価を自ら肯定した』ということである。
相手からの評価を『不当なもの』と自信を持って言えるのなら、こんなモヤモヤした感情は起きない。私の中の『そんな低い自分を認めたくない』という心が、『実際には相手の言う通り低い』自分を目の当たりにしてパニックになり、なんとか『自分は低くなんかないんだ』と思おうとして躍起になっているのだ。
人間、まんまの自分を認められない場合は、相手をなんとか自分より下げようと必死になって、相手のあらさがしをして批判したり、『あの人嫌い』と公言してみたりして、自分を守ろうと懸命になることもある。しかしそういった行動は全て、『私は実際は相手の言う通り低いレベルの人間です』ということを上書きし、自らを更に貶める、惨めで浅はかで愚かな行為である。
早めに止めた方が自分と周囲の人達の為だ。
そして私の心には『相手の目から見た自分』を『自分も納得するくらい上等な自分』と思いたい、という傲慢な欲求があるのだと思う。
相手の目は自分の目ではない。相手の考えることは相手の領分であり、自分がどれだけ頑張っても支配することは不可能である。
完璧な人などどこにもおらず、人間にはそれぞれ異なる限界があるということに腹の底から納得していなければ、このようにいつまでも『完璧な自分』を求め続けることになり、疲弊しきってしまう。
より高い自分を目指して努力するのは素晴らしいことだ。しかしその『高さ』を『他者から見た高さ』に設定するのは、いつまでも終わらない登山を続けるようなものである。
止めた方が良い。
頭では分かっていても、心の方は感じたままに反応する。これは『暑い』とか『痛い』とかいう感覚と同じで、抑え込むことは不可能だ。
だからと言って、『見下げられたと感じた自分』を落ち着いて冷静に分析する時間を意図的に設けないと、心はなりふり構わず『自分を守ろう』とするから要注意である。
自分を守るのは良いのだが、守り方に間違いがあるとかえって自分と周囲を不快にし、傷付けることになる。
自分を『外から』守るのではなく、『内側から』守るようにしなければならない。
『あなたは劣っている』『あなたは低い』という評価をどんなに下されたとしても、それはあくまでも評価をした人の基準に基づく判断であって、絶対的なスタンダードではないということを、先ずしっかりと理解する必要がある。
世の中には人の数だけ評価基準があり、たかだかそのうちの数人の基準をクリアしたところで、絶対的に『高くて』『優れている』ことにはならない。
例え自分が実際に『低い』『劣った』人間であるという証拠がいくつもあったとしても、そういう自分の現状を『まんま』認める。
但しここで注意しなければならないのは、自分を『低い』『劣っている』と認めるのではなくて、『私は現状、こういう状態だ』と客観的に、善悪の判断や評価を全く入れずに、写真を撮るような感覚で受け容れる、ということである。
これが簡単なようで、難しい。我々は他者からの高い評価がどんなに美味しい蜜の味か、を経験上知っているからだ。心がそれを得たいと思うのも無理はない。
だが決して焦らず、落ち着いてやってみるべきだ。
どんなにジタバタしようと、事実は一つなのだ。
自分を低いと思うも劣っていると思うも、結局は『自分』でしかない。評価してきた他人を恨んだりするのは、お門違いである。
闇雲に自分を肯定するのではない。自分の現状を『まんま』受け容れるだけである。『肯定』は『否定』の裏返し。そういった判断そのものが不要なのだ。
そして『自分はより高い方を目指していける』と思うのも自分だけである。
確かに身近にいる人から『あなたはきっと出来るよ』と言われるのは心強いものだ。しかしそこで『いや、私なんて無理だ』と思ってしまうと、折角のその思いやりが台無しである。
『うん、私には出来る』と強く思う。『肯定』はここで必要になる。『自信』と言っても良いだろう。
その思考に基づいた行動が、やがて現実を変える。
変えるのは『自分』である。
ともすれば、易きに流れてしまいそうになる私の心。
静かに、でも着実に、生涯向き合って行こう。