フニャフニャスキル
靴担当のDさんは、売り場の黒一点だ。ウチの夫と同い年である。
ウチの店で副店長として勤務した後、一旦退職。定年後再雇用で、昔担当していた靴の売り場に戻ってこられた。
穏やかで物腰柔らか。細身で小柄だが、細く整った鼻梁に下がった目尻が優しい、なかなかのイケメンである。
着任された頃、当時の店長が
「良かったねえ、穏やかな良い人が来てくれて。売り場の雰囲気が一気に良くなったね」
と私に話しかけてくれたが、本当にその通りだと感じている。
Dさん、実は最初のうち、レジでは結構『やらかす』人だった。
客注のお客様控えを渡し忘れたり、割引をかけるのを忘れてしまってクレームを受けたりがしょっちゅうで、私達レジ係も暫くの間、戦々恐々としていた。
実際に売り場に出ていたのはもう随分前のことらしく、退職までの十数年間はずっと管理職畑にいたものだから、激変してしまったレジのシステムに未だについていけていないんだよ、と言うのがご本人の弁明である。
嫌な人ならこんな言い訳をされると癪に障りそうなものだが、Dさんだと『それじゃあしょうがないねえ』で終わりになってしまう。
私達レジ係にも、
「いつも迷惑かけてゴメンねえ」
とすまなさそうに謝って下さるのであるが、お人柄が良いのと本来の仕事をバリバリやられているので、そんなに迷惑をかけられた気にはならない。
ベテランのYさんに、
「今度何かやったら、全員にケーキ一個ずつ買って来て下さいね」
なんて笑いながら言われて、頭を掻いていらした。
尤も最近は随分慣れてこられて、『やらかし』は殆どなくなっている。
Dさんは奥様もお子さんもいらっしゃる、れっきとした男性だが、話し言葉が女性っぽい。みんなで『ウチのオネエ』と呼んで、時々口調を真似している。
出勤してレジにやって来ると開口一番、
「どもー。お疲れ様ですう。おっはようございますう~」
とにこやかに挨拶されるのであるが、その声を聞くと、なんだか膝からガックンと崩れそうになってしまう。ゆったりのんびりしていて、それまであくせくと何かしていても、つい手を止め、笑顔で同じ調子で挨拶を返してしまう。
お客様が無理難題を言ってきても、Dさんは動じない。
「はい~はい~。左様でございますかあ」
と笑顔でゆったりと相槌を打ちながら、一応お客様の言い分を全部お聞きする。
聞き終わると、
「ごめんなさあい、生憎ウチではねえ、それは出来かねるんですよお。本当に申し訳ございませえん。折角なんですけどねえ。すいませんねえ」
と徹底的に謝り倒しつつ、実は相手の無理な要求を全く受け容れず、キッチリと断ってしまう。
その間、ずっと笑顔を絶やさない。しかもその笑顔が全然わざと臭くない。
とても真似できない。
イケメンの笑顔と言うのは幾つになっても破壊力抜群のようで、お客様が女性の場合、Dさんにこう言われると、大抵のお客様は我を引っ込めて立ち去ってしまう。
男性の場合は、相手がこれだけ温厚でフニャフニャした物言いだと闘争心が萎えるのか、段々大人しくなってくる。終いに
「わかったよ。出来ねえんだな」
と苦々しく言いながら、引き揚げてしまう。
こんな時Dさんはいつも、
「すいませえん。またよろしくお願い申し上げますう~」
と言いながら、その背中に深々と頭を下げる。
『柔よく剛を制す』という言葉は、Dさんの為にあるのではないか、とつくづく思う。
私はこれを『Dさんのフニャフニャスキル』と呼んでいる。
接客業では、何もかも客の言いなりになってはならない。店として守るべきことは守り、言うべきことは言わねばならないこともある。
そこに理解のあるお客様ばかりだと良いのだが、ない方も世の中には大勢いらっしゃる。
分かって頂くにはこちらの丁寧な態度と、『これだけはお譲り出来ないんです』という強い意志を示す言葉が必要である。
しかしこの両者を併存させるような接客をするのはとても難しい。接客業を何年やっていても、ああやっぱり慣れないなあ、と思わされるようなことに度々遭遇する。
Dさんの『フニャフニャスキル』を身に着けるのは、私のような人間にはちょっと難しいかもしれないが、こんな風に物腰柔らかに、でもカッコよく、静かに凛としていられたらなあ、といつも思う。
思わず見習いたくなる素晴らしい『先生』は、遠くに求めなくても、案外すぐそばに居てくれるものなのかも知れない。