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忘れられない上司

Hさんは私が今の職場にパートとして入って最初に、お世話になった直属の上司である。年齢は四十代後半、当時は課長だった。

私は当初、売り場担当としての入社を希望していた。
お金を巡るお客様とのやり取りは、必ず何かしらトラブルがある。独身時代の仕事の苦い教訓から、私はレジ係を希望していなかった。そのことは提出した書類にも書いていた。
ところが、面接の際Hさんはそんなこと読まなかったような顔をして、
「レジ係での入社を検討してもらえませんか?」
と言った。
なんやそれ、話し違うやん、じゃあここやめとこか。
私は反射的にそんな風に思ってしまった。

思ったことがきっと顔に出ていたのだろう。
「ウチの売り場は特殊なんです。レジ係でも売り場担当者と同じ業務もある程度行います。売り場担当者も交替でレジ当番に入ります。どちらにしてもレジ業務は避けられません。だったら、レジ係で入りませんか?」
Hさんはずいっと膝を進め、身体を乗り出すようにして熱心に勧めた。
後から聞いた話では、次々とレジ係が退職し、Mさん一人になってしまっていたので、なんとか私を説得しよう、ということになっていたらしかった。

どうせ夫が退職するまでの短い期間である。どっちにしてもレジを避けて通ることは出来ないのなら、まあ良いか、とかなりいい加減な気持ちで、私はじゃあそれでいいですよ、と返事した。
Hさんはびっくりするくらい喜んで
「ありがとうございます!是非よろしくお願いします!」
と手を握らんばかりに喜んでくれた。
そんなに人がいないなんて、この職場大丈夫なんかなあ、と一抹の不安を抱えつつ、私の職種はこの時レジ係に決まった。

五十になって初めてレジ操作を覚えることになった。
パソコンはおろか、機械全般と相性の悪い私は、こういったことを覚えるのが大変苦手である。四苦八苦しながらレジと格闘することになった。
Hさんはそんな私に根気よく付き合ってくれた。
最初はずっと隣に立ってくれたが、課長だって自分の業務がある。少し慣れてくると
「たまには僕を頼らずに、一人でやってみましょう」
と放置して、売り場のレイアウトを変更したり、発注を行ったり、するようになった。
間違えたらどうしよう、と不安でしょうがなかったが、小さな失敗を繰り返すうち、そこまで緊張しなくてもなんとか出来るようになってきた。

しかし、慣れというのは油断を生む。
中途半端に分かっている状態は、全く分かっていないより質の悪いことがある。
ある日、私はとんでもないポカをやってしまった。

紳士靴をお買い上げのお客様が、千円の商品券を三枚お出しになり、
「残りはクレジットカードで」
と仰った。
私は『商品券』というボタンをタッチして、『3』という数字をレジに打ち込み、お客様にクレジットの操作をして頂いて普通にお帰り頂いた。
商品券の扱いは、ちょっとややこしい。でもなんとか出来たかな、と思って念の為に機械と照合してみたところ、商品券の受け入れ金額が合わない。
冷や汗が出た。
「課長!スイマセン!!やらかしたかもしれません!」
私は急いで課長のところに走って行って、事を告げた。

商品券は券面金額が色々ある。もっとも多いのは千円だが、五百円や五千円もある。
だからレジの機械にはまず券面金額を入力し、その後枚数を入れねばならない。枚数は何も入れなければ一枚のみ入れたことに、勝手にカウントされる。
鈍臭い私は、券面金額のところに枚数を入力してしまった。だから
『三円の商品券を一枚』
受け入れたことになってしまったのである。

丁度夏のレイアウトに変更する時期で、課長は大忙しだった。
血相を変えてきた私を見て、ちょっと目を離し過ぎたかな、と思ったらしいが後の祭りである。
レイアウト変更は中断され、課長は私のやらかした不始末の尻ぬぐいに奔走することになってしまった。
クレジットカード会社に問い合わせてみたが、個人情報保護の為、お客様情報は絶対に教えてもらえない。
お客様が気付いて下さるのを待つしかない。

「来られた時の訂正とお詫びの用意をして、待っておきましょう」
Hさんにそう言われて、かなり落ち込んでしまった。
「起こってしまったことはしょうがない。次からやらなければ良いんです。失敗すると凄くハッキリ覚えるでしょう?なんでも経験は勉強、なんですよ。早めに自分で気付いてくれて、良かったです」
カード会社に電話をしたり、本部に電話して指示を仰いだり、大忙しだったにもかかわらず、Hさんはそんな風に言って笑ってくれた。
有難いことにその日の午後、件のお客様から電話があり、翌日無事に修正操作が出来ることになった。

この他にも私がやらかした色々は数えきれない。でもいつも嫌な顔一つせずに助けて下さり、その度にちょっとしたコツや気を付けるべきポイントを沢山教えて下さった。
むやみに励ますのでも、勝手に覚えろと放置するのでもなく、絶妙な教え方だったなあ、と今にして思う。随分根気が要ったことだろう。

Hさんは近隣の店に副店長として栄転された。
最後の出勤日、帰ろうとする私を従業員通用口で待っていて、
「お世話になりました。ありがとうございました」
と深く頭を下げて下さった。
とんでもない、こちらこそ、と恐縮した。

今でもレジでは色んな事態に日々遭遇する。
その度に『Hさんはこういう時どうしていたっけ』と考える。
すると自ずと正解が見えてくる。
その度に、Hさんに教えてもらえて良かったなあ、と感謝の念を深くしている。
忘れられない上司である。