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叔父のこと

母方の叔父が昨夜、亡くなった。享年九十五歳。大往生である。一瞬慌てたが母と連絡を取って話し合い、こじんまりした葬儀になりそうなのであなたたち夫婦は来なくて良い、ウチもお父さんは出ない、とのことだったので、結局弔電と香典のみで失礼させてもらうことにした。

私達夫婦はこの叔父夫妻が実質的な仲人となって結婚している。だから夫も他の親族とはちょっと違う認識を持っている。姑と叔母は友人関係でもあり、夫も結婚前から知っているような具合なので、年齢的には相応なものとはいえ、叔父の死は我が家にはちょっとした衝撃であった。

そうは言っても私が最後に叔父に会ったのは自分の結婚式である。叔母とは何度か顔を合わせる機会もあったが、叔父とはなかった。だから私の記憶の中の叔父は若いままである。
叔父は冗談好きの面白い人であった。大きな目に高い鼻の持ち主で、かなりの美男子であったが、惜しいことに身長は小柄な叔母とどっこいどっこいであったから、
「ワシの身長がせめてあと十センチ高かったら、太秦(東映の撮影所があった)からお呼びがかかっていたのに」
とよく冗談めかして言っていた。

叔父の実家は西陣の帯問屋であった。時代の趨勢と共に家業はどんどん左前になり、叔父は跡を継ぐことなく公務員になった。実家は間もなく廃業したと聞いている。
ウチの母の和ダンスには、この店の名前の入った畳紙で包まれた帯が沢山あったのを思い出す。
同じく公務員だったウチの祖父が叔父と何度か会うことがあり、気さくで明るい人柄を気に入り叔母との縁談を勧めた、と聞いているが本当のところはよく知らない。

叔父は私達親戚の子供に大人気だった。一生懸命身体を張って遊んでくれる人だった。
親戚が集まる席で酒が出ても、下戸なのですぐに顔を真っ赤にしてしまい、殆ど飲めない。後は祖父も、もう一人の叔父も、ウチの父も男連中はみんな結構飲める人ばかりだったから、叔父はいつも時間を持て余していたようだった。そんな時、私達子供が
「おっちゃん、遊ぼうよ!」
と声をかけると、
「おう、遊ぼう、遊ぼう」
と喜んで遊んでくれた。
男の子二人の父親だったから、荒っぽい遊びもしてくれた。足首を突かんでぶら下げてくれたり、みんなでふざけて叔父の背中に次々乗ったり、従兄達とふざけるのは楽しかった。

叔母は気難しい所があり、よく祖母と衝突した。ある時、家で叔母が祖母の悪口を並べ立てていたら、叔父に
「あんた!今の自分の顔、鏡でよう見とおみ(見てみなさい)!おたくのお母はんに、よーう似とおいやす(似ています)で!」
と言われた、と叔母がぼやいていたことがあった。
西陣、室町と言った辺りの言葉は、京都弁の中でもかなりディープでねっとりとキツイ。厳しく諭すのではなく、こういうユニークな言葉遣いではっと気付かせる。叔父にはそんなところがあった。
真っ向から叔母を批判して責め立てるような人なら、きっと喧嘩ばかりの夫婦だったことだろうが、私の知る限り最後まで仲の良い夫婦だったと思う。

祖母の葬儀の時、私は喪主だったが学生だった為、この叔父が弔問客に最後の挨拶をしてくれた。車を待っている間、叔父は祖母の遺影を胸に提げた叔母を見てプッとふき出し、
「こんな時に不謹慎やけど、ホンマにそっくりだんな。使用前、使用後や」
と私に耳打ちしてニヤリとした。
気の張ることばかりで疲れていた私も、これには失笑を禁じえなかった。

晩年は大きな病気をしながらも、家の近くに畑を借りて野菜を育て、収穫を楽しみにしていたそうだ。ここは山がすぐ近くにあるせいで、サルがよくやってきて作物を根こそぎやられたりすることも度々あり、
「サルと知恵比べせんなん。ボケ防止に丁度良い」
などと笑いながら農作業を楽しんでいたと聞いた。家でじっとしていることは殆どなかったそうだ。

色んなことのあった人生だったと思うけど、叔父はきっとあちらでも、明るく陽気な振る舞いで周りを和ませていることと思う。
惜しい人が、また一人逝った。




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在間 ミツル
山崎豊子さんが目標です。資料の購入や、取材の為の移動費に使わせて頂きます。