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父の放し飼い

随分大きくなってもなお、父を猛烈に恐れていた私達姉妹が、一度だけ激しく父を怒鳴りつけたことがある。
季節は記憶にないが、特に暑かったとも寒かったとも思わなかったようなので、今頃だったのかも知れない。
私も妹ももう働いていて、家族皆の帰りが遅くなるのが当たり前の頃だったのは覚えている。

我が家には一匹の駄犬がいた。母が拾ってきたソイツはジロといい、間抜けで食いしん坊で、お茶目な上にかなりの甘えん坊で、一家の癒しの存在になっていた。
我が家には猫の額ほどの庭があったが、そこで粗相をしないよう、父が厳しく躾けたため、ジロは散歩でしか用を足すことが出来なかった。だから夕方になると尿意を催して、クンクン鳴いて散歩を催促したものだった。
平日は母が、休日は私か妹が連れて行くことになっていた。

その日、友人達と旅行にでも行っていたのか、母は不在だった。
私は仕事で帰宅が遅めになってしまった。妹は私よりも遠い職場に勤めていたから、きっとまだ帰っていないだろう。早く帰ってやらないと犬が可哀想だ、と思い、帰宅した私はバイクを車庫に入れると大急ぎで庭の犬小屋に向かった。
「ジロ!お待たせ!」
ところが跳びついてくる筈の犬がいない。鎖が離されている。
さては妹が先に帰ってきてもう行ってくれたのかな、なら良いんだけど、と思ったが、そういえば妹のバイクはまだ車庫になかったことを思い出した。

まさか父が連れて行ってくれたのだろうか?
父はジロのことを『アホ犬やから連れて歩くの恥ずかしい』と冗談半分、本気半分のように言って、滅多に散歩に行くことはなかった。
それにこの日、父は課の飲み会だった筈だ。いつもべろんべろんに酔う父が、散歩に行けるわけがない。
訝りながら家に入ると、居間で父が大の字になってガアガアいびきをかいていた。
「お父さん?ただいま!ジロは?」
揺り起こして訊くと、父は酒でどろんとした目を私に向けてニヤッと笑い、
「あんなアホ犬、要らん。捨ててきたった」
と言ってまた寝てしまった。
散歩には連れて出たが、連れて帰るのが面倒になって放置してきたらしかった。
私は青くなった。ジロはどこにいるのだろう。自分で帰ってくるような『名犬』では絶対にない。迷子になるのは目に見えている。
どうしよう。

そこに妹が息せき切って、帰ってきた。私と同じようにガレージから庭に直接行って、ジロが居ないのを確認したようだった。
「あれっ?ジロ、姉ちゃん連れて行ってくれたんとちゃうの?」
妹は私から一部始終を聞くと、父のだらしない寝姿を見て、大きな声で一喝した。
「おい、オッサン!どこにジロほってきてんな!答えろや!」
私も我に返って、一緒に叫んだ。
「車に轢かれてたらどうすんのよ!どこらへんでほってきたん?死んだらお父さんの所為やからね!」
娘二人に罵倒されてビックリして目をぱちくりさせている父をそのままにして、私と妹はいつも散歩に行く田圃にジロを探しに出かけた。
辺りは勿論真っ暗だった。

「ジロー!」
「おおい、帰っておいでー!」
良い歳をした大人の女二人が声を限りに叫んでいると、川の向こうにボンヤリと白いものがひょっこりと姿を現した。やがてそれは凄いスピードで一目散に駆け寄って来て、私と妹のところにダイブした。
ジロだった。盛んに尻尾を振っている。散歩紐をつけたままだ。
「よかったあ!」
「ごめんな、ほったらかして」
かわるがわる抱きしめる私達を、ジロはベロベロと熱烈に?歓迎してくれた。

帰宅した後も私達は父とは口をきかず、プンとしていた。
少し経って母から家に電話があり、丁度父が出た。家の様子を訊かれたらしい。
「お母さん、ウチの娘は二人共ひどいで。ワシをボロクソに怒鳴りつけよったで」
ろれつの回らない口調で、父が一生懸命訴えているのが聞えた。
母は最初、何のことかと思ったそうだ。
私と妹はそんな父を尻目に、
「当然やんな」
と言って笑って自室に引き取った。
父から聞いて事の顛末を知った母は、電話口の向こうで大笑いしていたらしい。

この時の話をすると、未だに母は
「あの時は面白かったわあ。あんたらの罵声、聞きたかったわ」
と愉快そうな顔をして笑う。
父は照れ臭いのか、醜態をさらしたのが恥ずかしいのか、その後この件に関して一切何も言わなかった。
私達姉妹のことも、ジロみたいに『もう知らん!』と放置して育ててくれればよかったのになあ、と思うがまあ、もう済んだことだ。父も後悔しているんだろう。
ジロが天国に旅立って、もう四半世紀近く経つ。
ウチの家族にあの子が居てくれて良かった。
今でもあのお間抜けな愛くるしい顔を、懐かしく思い出すことがある。