朝の心支度
私は毎朝、だいたい五時くらいに起床する。『だいたい』というのは必ずしもきっちりそうではない、ということである。前日の疲れがたまっていたり、風邪気味なんかのときはぐんと遅くなることもある。
起きれば先ず最初に布団を上げる。カーテンを開け、窓もほんの少し開けて、外の冷たい空気を吸い込む。
それから一階に降りていき、トイレにて生理的欲求を満たす。
二階の自室に戻って、自分の机に向かう。
そして先ず目を閉じ、自分の心の状態を静かに観察する。
今日の私はどうだろう、と自分に問いかける。
モヤモヤした気分の日もあるし、ハレバレした日もある。心というのは常に外界に影響を受けて揺れ動いているが、朝起きてすぐの、誰とも会っていない時の自分の心の状態というのはなかなか興味深いものだ。
睡眠の質がどうだったか、ということも大いに反映されているのだろうが、もっと大本、つまり睡眠の質を左右したであろう、前日以前の出来事が、この起床時の心の状態に深く影響していると思う。
こうやって自分の心を観察した後、いつものノートを開く。
そこに正直な気持ちと、なんでそうなってるのか、の自分なりの推測を書いてゆく。
なんかジメジメ重い気分だなあ、と思う日は、前日夫と喧嘩して、実は自分が悪かったと思っているけど謝れなかった、だとか、酷いお客さんの対応で嫌な思いをさせられた、などといった、心に負荷がかかる事象が必ず起きているものだ。
その時の感情も思い出して書く。
素直に謝れば良かったけど、大体アイツも悪いねん、とか、あんな客もう来ていらんわ、とか、言葉遣いもこんな感じのままで書いてしまう。
逆に軽いふんわりした気分の時は、やらねばならないことを済ませた後だったり、何か思っていたよりいい結果が出て嬉しかった余韻が残っていたりする場合が多い。
この時もやっぱり、ああ、スッキリしたなあとか、あの時は嬉しかったなあ、とか書いていく。
この過程で、頑張った自分を褒める。
謝ろうと思える私って偉いよなあ、とか、いつも接客頑張ってるよなあ、と『自画自賛』する。別に誰も傷つけないから、全然平気である。見られることもないのでこっぱずかしいこともない。
次に、こうなったら嬉しいかな、とういうことを書く。
夫に謝って、仲直りしたいな、良い気分で接客したいな、そんな感じである。
そして『じゃあどうすればそうなるかな』と考えて、それを書く。
よし、明日起きたら謝ろう。どんなお客様でも笑顔で丁寧に接しよう。嫌なものは無理しなくて良い。
こうやってどんどん書き出していく過程で、不思議と心がすうっと凪いでゆく。
すると心に自然と、感謝の念が芽生えてくる。
以前は夜、布団に入る前にこれをやっていたのだが、寄る年波と共に早い時間に瞼が塞がってくるようになってしまったので、朝に切り替えた。
こうやって書くようになって数年。ノートは既に何冊にもなっている。
昔のものを読み返すと、母の悪口を思いっきり書いているものや、ダメな自分をこれでもかというくらい罵倒して、頭を掻きむしらんばかりにイライラしているものもある。
今となっては懐かしい、私の心の足跡である。
『書かなきゃ』と思っている訳でもないし、まして書く分量なんて、毎日バラバラである。見開き両方使ってしまう日もあれば、数行で済ませる日もある。書かない日だってある。でもそのことで自分を責めたり、後悔することは全くない。出来れば良いな、くらいの感覚である。
書くことで、心が落ち着く。前向きになる、というよりは今日一日を過ごすための心の準備が整う、という感じがする。
自分でも他人でもそうだけれど、寄り添うには先ず、しっかりと見てあげなければならない。
自分は今、どういう心の状態なのか。どうしてそうなったのか。どうなれば自分は嬉しいと思うのか。
これらが分かれば、自分の心の中の河はゆっくりと流れだす。
心で思っているだけではなく、ちゃんと自分の手で紙に書いて、読む。
これは私にとって、自分の感情を冷静に客観視する為に、必要な作業なのである。
どんな時も、その時起こった自分の感情をおろそかに扱わない。そのままちゃんと受け容れる。
私はこれからもふんわりと、大切に自分に寄り添っていくつもりである。