あるベンチャー企業との出会い
はじめに
学生の頃、創業4年目のベンチャー企業に出会った。卒業後は違う企業に入社したが、社会人としてこの企業に転職し、今も働いている。創業12年目の時には上場もしたし、色んな仕事もさせてもらった。
自分にとって最もインパクトがあったのは、このベンチャーと出会った頃だと思う。そこで、出会いから今までについて、このnoteで少し振り返ってみたい。誰かの為になるような話はないが、備忘録として残しておく。
イノベーション=技術革新じゃないの?
2010年2月、私は学部3年生で、4月から4年生に上がるタイミングであった。
2008年頃にiphoneが日本で発売され、最初は普及するかどうか疑問視されていた。ただ、iphoneの快進撃が続き、2010年頃には、「何故、日本からこのデバイスが誕生しなかったのか?ソニーやシャープは何してた?」といった議論が多くなっていたと思う。
私は理工学生として、イノベーション=技術革新であり、技術が強ければ製品もビジネスも勝てると思っていた。ただ、この議論を見ているとどうも違う。何やら、イノベーションを起こすには、ビジネスとか、エコシステムとか、知財とか、そういう技術以外のことも重要らしい。
そんな時に、「技術力で勝る日本が、なぜ事業で負けるのか」という、ショッキングなタイトルの本を見つけた。そうか、技術を磨くことは大事だが、それだけではダメなんだ・・・。
ちょうど研究室に配属された時期でもあり、「よし、研究やるぞ!」と思っていただけに、現実社会とのギャップをより大きく感じた気がする。
大学生として研究にしっかり取り組みたい。一方で、せっかく大学で色んなことを学んだので、実社会でも何かやってみたいと考え始めた。そこで、IT企業でのアルバイト求人を探すことにした。
当時、アルバイトと言えば、私も周りの友人も塾講や飲食店が多く、今ほどIT企業でのバイトやインターンは流行っていなかったと思う。
名前は忘れてしまったが、ベンチャーと大学生をマッチングさせるような求人サイトがひっそりとあった。このサイトを使って検索しまくった。(確か、リンクアンドモチベーションに買収されたか、関連子会社だったような気がする)
あるベンチャー企業との出会い
私の研究領域はスマートグリッドや再生可能エネルギーであったが、機械学習やデータマイニングにも興味があった。当時は深層学習革命の前で、「ニューラルネットワークは期待されたけど、中間層が増えるとうまく行かないから熱が冷めたんだよね~」、みたいな講義がされていた時代である。
せっかくなら機械学習やデータマイニングをやっている企業がいいなと思っていた。いくつか求人があったが、マーケティングリサーチ系が多かった。データマイニングの教科書を開くと、事例の多くは購買履歴分析だったので、本当にそういう企業が多いんだなと実感した。ただ個人的には、マーケティング以外でデータマイニングに取り組んでいる企業に興味があった。
そんな中、あるベンチャー企業を発見したのである。
当時、創業4年目で、テキストマイニングやデータ可視化をやっている。クライアントは企業の研究開発部門で、主に特許や論文情報を分析して、R&D・事業戦略のための知見を提供しているらしい。社長は同じ大学出身の大先輩で、シンクタンクで長年働いてから起業した方であった。大学でも非常勤講師として講義しているらしい。
「おお、これは面白そうだ」
ちょうど私が「技術力で勝る日本が、なぜ事業で負けるのか」という本で、ショックを受け、興味を抱いていた分野で、好きなデータマイニングや機械学習を使って、課題解決できるのかもしれない。テンションが上がった。
当時、求人サイトのキャリアアドバイザーの方に色んな求人を紹介してもらったが、「ここ以外は興味ないです」と言って、この1社だけに応募した。むしろ、「こっちの求人の方が良くないですか?」みたいな勧められ方さえされた気がする。私が興味をもった企業は、紹介料が低かったのかもしれない。
面接は少し緊張した。人事かと思っていたら、いきなり社長。そりゃそうだ。6人くらいの会社だ。そもそも人事などいるわけもない。聞かれたことは「プログラミングできる?」、「大学では何を勉強しているの?」といったオーソドックスなものだったと思う。
プログラミングについては、ちょっと嘘をついた。「できるか?」と聞かれたら、「知っているができない」が正直な回答だっただろう。確かに講義でC、Java、Rubyをやったが、今すぐ書けと言われたら書けない。データマイニングの勉強でRを使っていたので、これは少し分かる。
そもそも「プログラミングが書ける」というのはどういうことだろうか?WEB検索しながらなら、なんとか書けそうだ。だけど、我々が日本語を何も見ずに書けるように、プログラミングも「調べながら書ける」というのは「書ける」という範疇ではないと思っていた。
そんなことを思いながら、まあ、これから研究室でCをメインで使うのでできるようになるだろう、ということで「できる」と答えた。
そのとっさの判断のおかげ(?)で、無事、採用してもらえることになった。
バイト初日、頭が真っ白になる
2010年3月、初めての出社である。
最初は会社に関するレクチャーや、業務の基礎知識、軽い仕事からスタートするのだろうと思い、気軽に出社した。
すると、何やら作業指示書というものがある。それを見ると・・・
人生で初めて頭が真っ白になった。
VBAってなに?数万行のエクセルとか初めて見たぞ。
FタームとかIPCって何?そもそも特許読んだことないぞ。
準ニュートン法は分かる。講義の宿題でC言語で作った気がするけど、どこだっけ?
Googleでの検索と結果の出力って、プログラミングで自動化できるものなの?!
この日は、何一つ成果を出せなかった。
これまで、大学で真面目に講義を受け、成績も良かった。本を読んで、意識が高くなって、その勢いでベンチャーに応募した。プログラミングは自信はないけど、できると答えて採用してもらった。
なのに、初日から頭が真っ白で、何一つ結果を出せない。
「うわぁ、自分、実社会では全然使い物にならないじゃん。」
もう力は残っていなかったが、帰りになんとか本屋に寄ってVBAの入門書を買った。
はじめて父に怒られる以外で泣いた。
プログラミングの学び方を学ぶ
出社初日は散々たる結果であった。家に着いても、自分の無力さに打ちひしがれていた。
翌日、VBA入門書を開いてみた。これまでの勉強法が染み付いている私は、とりあえず一冊読み切ってみようと思ったのだ。
・・・つまらない。
架空の事例やデータを使って、今後使うことがあるか分からないようなコードや関数を打っていく。
私は別にVBAマスターになりたいわけではない。やりたいことは、初日に与えられたタスクができることだ。そうか、本を読み切る必要はなく、やりたいタスクから必要な箇所を逆引きしながら読めばいいのか。
そのように考え方を切り替えると、あれほどつまらなかった作業が楽しくなってきた。目標に向かって動くものが構築されていくのだ。しかもこれは、学校の宿題で先生に添削されて終わるコードではなく、誰かに使ってもらい、少しでも社会に価値をもたらすのだ。
大学や自宅でも試行錯誤を続けた。そしてついに、次の勤務前にプログラムができたのである。
社長に提出し、ちゃんとやりたい処理ができていることを確認してもらった。「ありがとう」という言葉が染み渡った。
今思えば、ものすごく簡単な処理だし、社会に与える影響など殆どないわけだが、当時の私にとっては衝撃的な体験であった。
今の大学生は皆PCを持っていて、プログラミングもできる人が多いだろうが、当時はノートPCを持ち歩いている人は少数だったし、プログラミングもそんなに話題になっていなかった。私には、「自ら何かやりたいタスクを考え、それをプログラミングで便利にする」といった発想自体が生まれなかった。そんな状況で、社会人の先輩から実際のタスクを与えられ、プログラミングした経験は、私にとって重要な転換点だったと思う。
道具を生み出すことが楽しい
2010年2月に出会ってから、2013年3月に大学院を卒業するまで、アルバイトさせてもらった。基本的には社長のアイディアをプロトタイプしたり、データ分析ツールを開発する役割であった。
はじめは社長の言われたタスクをこなすだけで大変だったが、途中から自分なりの工夫やオリジナリティを加える余裕や力が付き始めた。
もっとこうしたら計算速度が早くなるのではないか?、もっとこうしたらユーザーは使いやすくなるのではないか?そんなことを自然に考えるようになった。
例えば、当時の分析ツールはエクセルで動かすものだった。インターフェースはシートそのもの。セルに分析に必要な項目がズラリと書かれていて、ユーザーが好きなパラメーターや設定をして処理を回すのだ。
でも、私たちがITツールを使うとき、普通はやりたいことに沿って画面が出てきて、ユーザーを導いてくれるはずだ。そこで私は、頼まれてもいないが、勝手に画面UIを作ってみた。会社の人にも確認してもらい、そのままその分析ツールのUIとして採用された。それからこの分析ツールがクラウド化されるまで、約4年くらい使われ続けたと思う。
お客さんからのフィードバックもよくあった。要望もあれば、バグ報告も多かった。本来はちゃんと社内でテストを踏まて出すべきだろうが、当時は人手も少なく、そこそこのテストで提供していたのだ思う。多少バグがあっても、お客さんが使ってくれて、色々とフィードバックいただける関係性だったのは、言うまでもなく社長や社員とお客さんの信頼関係があったからだろう。人やツールの思想が魅力的であれば、その可能性を信じて使ってくれるお客さんがいる。技術は大事だが、技術だけじゃないと改めて感じた。
バイト以外でも、身につけた知識を活用した。自分の研究で活用したり、研究室の同僚がデータ処理で困っているときは助言したり、親が電卓と手書きでやっている出納帳をエクセルでツール化したこともある。とにかく、道具を生み出すことが楽しかった。
社会人になってからの再入社
約3年間バイトしたあと、私は大学院を修了し、大手通信会社の中央研究所で勤めた。そのあと、Webサービス企業でデータ分析業務に従事し、2016年にバイトをしていたこの企業に転職することになる。理由は下記の通り。
論文や特許といった科学技術情報分析がやっぱり楽しいこと。
人間の思考や発想を支援する道具を生み出し続けたいと思ったこと。
それらの道具を自分自身で使って、科学技術や研究開発を推進する人たちの支援をしたいと思ったこと。
入社してから、データ分析案件、新しいUI開発、海外営業など、色んな仕事をさせてもらった。1か月くらいシリコンバレーに滞在させてもらった時はとても刺激的だった。Airbnbで取った部屋のホストに、"Future is here."と言われたのは、今でも鮮明に覚えている。またシリコンバレーに行くことがあれば、この部屋に泊まって、ホストとまたお話がしたい。あと、2018年にはマザーズ上場もした。はじめて東京証券取引所に行った。経営陣が鐘を打って、あのグルグル文字が回っているディスプレイに社名が流れたときは嬉しかった。
私が創業4年目で出会った時は6名だったが、今は米国子会社も含めれば30名くらいだろうか。仲間が増えたのは素直に嬉しい。入社当時は人手がなく、あれもこれもやっていたが、今は役割分担ができている。私は、民間企業の研究・技術戦略部門や公的機関の方々とのデータ分析プロジェクトに注力している。仕事量は少なくないと思うが、日々、好奇心を刺激する機会や情報に満ち溢れている。
これからやりたいこと
第一に、科学技術や研究開発の進展に貢献できるような仕事をし続けたいと思っている。また、研究者以外でも、誰もが科学技術情報を活用し、自分の仕事や生活に活かせるような世界も作りたいと思っている。
第二に、科学技術や研究開発に纏わる人を支援するだけでなく、自分自身も推進する側になりたい。最近、関西の大学が保有しているあるシーズについて、事業化を検討していた。事業プランとして甘い所は多々あったが、シーズを起点に、解くべき課題・ソリューション・市場感を行きしながらアイディアを作っていくのは楽しかった。先生の今後の活動にも今回の成果を活用していただけそうで良かった。今後、大学発ベンチャーや科学技術商業化への関わり方も探索してみたい。
第三に、人間の思考や発想を支援する道具を作り出し続けたい。最近、Stable DiffusionやChat GPTにように、人間の言葉を使って誰もがAIを相棒にできるようになった。人間と機械のインタラクションが変わる。AI研究とインタラクション分野を追いかけつつ(というかもはや濁流・荒波に揉まれている)、自らも生み出す側でありたい。
親心とベンチャー
私は、子供の頃から親に順応な方だった。
本当は、大学では生命系に行きたかった。高校の卒論ではクローン人間の倫理について書いたくらいだ。ちょうど卒論を書いているとき、iPS細胞が発見されて興奮した。ただ、そんな私の論文を読んだ父からは、「生命に手を入れることなど言語道断」と一蹴されてしまった。結局、そんな父の言葉に委縮してしまった私は、「生命」が目立たない形で含まれている「電気・情報生命」という学科を選んだ。
就活や転職するときも、父からは「ベンチャーには行くな」と言われていた。昔から「Orale、Googleはすごいぞ」「日本だとオン・ザ・エッジやサイバーエージェントといったベンチャーが面白い」と言ってきたのは父ではないか。小学生の時に学校を休ませてまで、子供向けの起業教育プログラム※に参加させたのも父ではないか。これまでの言動が違くないか?と思ったが、今思うと、ドットコムバブルを見てきた父なりの親心だったのかもしれない。
両親は中卒で北海道のど田舎から東京に出てきた人たちだ。きっと不安定なことも多く、苦労したのであろう。父は私が生まれると、料亭の板長という身分を辞め、ヤクルトの寮の料理人という安定を取った(おかげで私は大のヤクルトファンだ)。本当は自分の店を作り、料理の腕前で勝負したかったのではないか。
振り返ると、転職やベンチャーで働くことについて父が反対していた気持ちは分かる気がする。自分が不安定で大変だっただけに、子供には大企業に入ってほしかったのかもしれない。ただ、これまで順応だった私も、この意思決定だけは父を押しのけた。母からは「好きなことやりなさい」と言ってもらえたことも後押しになった。そもそもベンチャーで働きたいと思っていたわけではなく、やってることが面白いからやりたいだけなのだ。
自分の子供が大きくなって、進路に悩んだとき、私は何て言えるのだろうか。あまりうまい言葉が見つからないかもしれない。その時は、このnoteを子供に読んでもらおうと思う。
※マザー牧場に来ている人たちに、自分たちで作った商品を売りまくるというプログラム。早稲田大学の何かの団体が主催していた。確か売った商品は巾着だったかな。結構売れて「俺たちスゲー」とかチームメンバーと話した覚えがあるが、子供がマザー牧場で巾着を売ってたら、珍しさや可愛さで買ってくれただけなのかもしれない。このプログラムはまだあるのだろうか。あるなら次は運営側で参加してみたい。