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近世今川氏の菩提寺と供養
永禄3年(1560)、駿河太守で海道一の弓取といわれた11代今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれ、戦国大名としての今川氏の領国支配が動揺し、松平元康(徳川家康)をはじめとする三河衆の反乱、「三州錯乱」、遠江国衆による反乱「遠州忩劇」、そして永禄11年(1568)の武田信玄による駿河侵攻と徳川家康による遠州侵攻により義元嫡男・12代今川氏真は領土を喪失し、大名としての地位を失った。
その後、氏真は各地を流転したが、駿河で培われた高い文化的教養で文化人として生き残り、慶長19年(1614)、江戸で死去した。
子孫は江戸幕府高家旗本になるなど江戸時代を通して存続し、その嫡流は明治時代まで存続し、23代にまだ及んだ。
本稿では駿河大守から徳川氏に臣従し江戸に移り、現在の杉並区今川中心に所領を得た今川氏真をはじめとする近世の高家今川氏の菩提寺と供養について記す。
観泉寺
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曹洞宗。山号は寶珠山。本尊は釈迦如来。慶長2年(1597)年に観音寺と現在の下井草に建立された。開山は鉄叟雄鷟、中興開基に12代今川氏真。中野区の成願寺の末寺とされた。
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正保2年(1645)、今川氏真の孫である13代今川直房は徳川家康の神号である「東照大権現」の宮号宣下を朝廷より賜るため、京都に派遣され「東照宮」の宣下を実現させ、今川氏真の知行地であった遠江野洲郡長島村500石に加え新たに多摩郡井草村500石、多摩郡上鷲宮村135石、豊島郡中村64石を加増され、この際に観音寺を上井草に移転させ、観泉寺と改称した。
寺号の由来は今川範以の二女の戒名で伽藍建立に寄与した法号「観泉寺殿簾室慶公大姉」を讃えたものである。
江戸期を通じて今川氏と観泉寺との関係は密接であり、観泉寺では年始や暑中、寒中など季節の挨拶や見舞品の贈呈を当主、家族、家臣、使用人に至るまで行っている。
また、観泉寺一帯を知行地とした今川氏は訴訟や年貢の徴収所とするなどの役場機能を観泉寺に置き、また住職の交代時には今川氏の認可のもと、本寺である成願寺に届け出るなど密接な関係にあった。
観泉寺では今川氏の菩提所として初代今川国氏から今川義元を含む歴代の今川氏当主と今川氏出身の女性、子供を含む、一族が過去帳に記され、当主は月命日供養、年忌供養が行われている。
特に観泉寺では今川氏嫡流の供養が重んじられ、庶子の供養は長延寺にて行われた。
東京都指定旧跡観泉寺今川氏累代墓
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(写真右から)
・13代今川直房(なおふさ)
・大久保源三郎
∟大久保忠高の子(母は直房の子)
・今川範明
∟直房の子。早逝。
・12代今川氏真(うじやす)
・早川殿
∟今川氏真室
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(写真右から)
・今川範以(のりもち)
∟今川氏真の子。早逝
・範以 妻
・大久保源三郎 妻
∟今川直房長女
・大友義親 妻
∟範以の子
・14代今川氏堯(うじなり)
・15代今川氏睦(うじみち)
・直房 妻
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右側部(写真右から)
・21代今川義用(よしもち)
・20代今川義彰(よしあき)
・17代今川範主(のりぬし)
・16代今川範高(のりたか)
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左側部(写真右から)
・18代今川範彦(のりひこ)
・19代今川義泰(よしやす)
・22代今川義順(よしより)
・23代今川範叙(のりのぶ)
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長延寺
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曹洞宗。山号は萬昌山。本尊は釈迦如来。文禄3年(1596)の江戸市ヶ谷牛込に建立された。開山は当寺2世笑岩長闇の師で室田長年寺(群馬県高崎市)の喚英長応を勧請開山とした。
当初は成瀬正成を開基としたが、後に成瀬氏は離檀し、今川直房が当寺で修行していた11代今川義元の三男とされる一月長得(今川長得)の縁で開基となり没後当地に葬られた。
以降23代今川範叙まで江戸期を通じ高家今川氏の墓所となった。
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23代今川範叙が明治20年(1887)に没し、今川氏絶家後の明治42年(1909)に長延寺が市ヶ谷牛込から現在地の和田に移転すると歴代の墓は散逸し、現在の長延寺墓域には「今川家累卋墓(明治19年建立)」と「今川庶子墓」の2基が残り供養が行われている。「今川家累卋墓」に記される今川龜年(今川亀年)は明治19年(1886)7月23日に没したとみられるがどの系譜に属する人物かは不明である。
萬昌院功運寺
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中野区上高田の龍寶山萬昌院功運寺には萬昌院を開基した今川義元三男とされる一月長得(今川長得)の墓がある。曹洞宗。山号は龍寶山。本尊は釈迦如来。
萬昌院では、
・一月長得
・早川殿
・今川範以室
・品川高久(今川氏真次男・高家品川氏初代)
・品川高久室
・今川範明
・徳本院殿前大僧正澄存大和尚位(今川氏真の子・若王子)
・今川直房 子女
・今川直房
・白石祐清居士(人物不明)
の石造塔婆が存在し供養がなされている。
また、萬昌院功運寺は今川氏と同じく足利氏を祖とする吉良氏の菩提寺であり、赤穂事件で著名な吉良義央を含む4代の墓がある。
明治維新と今川氏嫡流の断絶
23代今川範叙は幕末の動乱期に高家職就任し、伊勢の神宮、日光東照宮、御所の炎上の見舞いのための京都御使を勤めていたが、慶応4年(1868)に高家職兼任で異例の若年寄に就任し、東征大総督有栖川宮熾仁親王へ徳川家の嘆願書を提出するなど、江戸無血開城のために努めた。
維新後は版籍奉還による知行地の喪失や士族編入ため経済的危機を向え、家臣に暇を出すなどしたほか、妻や嫡子である今川淑人をなくすなど不幸に見舞われ、明治7年(1874)には観泉寺住職が旧知行地にて義援金を募り援助したが、没落し、浅草向柳原町(台東区浅草橋)の士族の家に居候していることが長女・せんの婚姻時に記されている。それ以降の動向は判然とせず、明治20年(1887)11月3日に死去し、今川氏は断絶した。
今川氏は明治期に断絶し、長延寺などの移転も行われていたが、近世今川氏の供養は現在でも行われ、観泉寺のある杉並区今川にその足跡を地名として残している。
参考文献
観泉寺史編纂刊行委員会『今川氏と観泉寺』昭和49年
杉並区立郷土博物館『今川氏と杉並の観泉寺』杉並区立郷土博物館 平成7年
大石泰史『今川氏滅亡』角川選書 2018年