見出し画像

ただ友達になりたかった(2/3)【feat.メガネくん】



 結局この日、私がメガネくんと打ったのはこの3球だけ。けれども勝負、という括りが変な遠慮を生まずに済んだ。純粋なラリーだったら「失敗を恐れた凡庸なやりとり」を提案しかねなかった。
 帰り、運転しながら思い出す。メガネくんが珍しく見せたバックのスライス。「スライス打ってましたっけ?」と聞くと「本当にキツイ時だけ。逃げる用に」と笑いながら返した。打てることさえ知らなかった。ということはそれまで逃げずに戦っていたということであり、逃げることを覚えたということでもある。そんな柔軟さにざわめく。ウソを言ったとは思わない。けれども多分、メガネくんはスライスを打てなかった。否、打てたとしても実践に使うに事足りる安定感を持つまでには至っていなかった。それが使えるようになった。そうして本当にキツイ時、ニュートラルを取り戻すための一手が打てるようになった。笑いながら返したのは、だから「打てるように努力した」ことに気づいたことへの感謝を含んでいたのかもしれない。
 運転しながら思い出す。燃える目。3、という答え。それは既に20回弱対戦した後の残りのライフ。私が結局この日メガネくんと打った、たったの3球。短い中でも一発で分かった。ネットを越える高さ、弾道、回転量、スピード。一度として同じボールはないに関わらず、打ち返した瞬間、確信した。それはただの答え合わせに過ぎない。何度も、何度も繰り返してきたやりとり。私にとって丁度いい打点に返って来たリターン。5点持ちのやりとり。
〈3〉
 はっとする。気づくと同時にドン、と心臓が音を立てた。
 フォアサイド、こっちのベースラインを割った、低い打点で打ち返されたボール。
 アドサイド、ネットにかかった相手のバックハンド。
 あの時削った2点。思い返せばそれは私とのやりとりの間に発生したもの。最初の2回、この時メガネくんは最速で2点失っていた。
 たったの3球。短いやりとり。その中で行き交ったもの。

 耳を澄ます。今になって。私はテニスが好きだ。テニスをするためにあの場所に向かうし、少なくともその瞬間はテニスのために存在する。どうすればいいのか。どうしたらもっと上手くなれるのか。どうしたらもっと楽しめるのか。貪欲に追い求める一塊になる。ただ幸せであると、全てはこの競技への想いを表現するため。
 耳を澄ます。例えばそれが私に限った話でなく、メガネくんにとってのテニスも似たような温度を持っていたとして、それよりも、自分の楽しみよりも、あるいは自分の楽しみがため「私にとって丁度いい打点に返ってきたリターン」を用意していたとしたら。
 耳を澄ますのは澄ませられる耳があるから。
 あの時、一球目を打ち返した時、両腕とも使えなくなった状態で飛んでくるボールを見たとしても、打ち返す絵を見ることができると確信した。それはあるはずのない一歩先の未来。飛んでくるボールを目にした時、それだけで満ちた。それは「実際は打っていないにも関わらず打っていた」という脳の錯覚、にわかに信じがたい現象だった。それは知覚していない、見ていない、現れてもいない。だから当てる言葉は正確には「現象」ではないけれども、それは私にとってはどう足掻こうと現象。この時点でまたひとつ、共感を失う。深度を上げる。

 耳に残る打球音。逆クロス。コートの角をえぐる。誰が見てもイン。その人自身の足元に残った打球痕と、有無を言わさぬ正しさ。距離感を違えないメガネくんは、実は前に出ても戦える。後ろにいれば全て自分のものとして処理できるが、前に出ると人に任せなければならない場面が来るため、好まないだけで。そんなメガネくんが最後のゲームで珍しく前に出た。
 一体どうしたんだよ。何で自らリズムを崩すようなことするんだよ。
 後ろにいれば、ストローカーでいれば、異常とも言える安定感に、勝手に相手が崩れた。それで勝てていたのに。

 その日、メガネくんはメガネをかけていなかった。
 その日、メガネくんはどもることはなかった。
 その日、メガネくんは人に何かを譲ることはなかった。

 私自身、空白の時間を埋めるように、できるようになったこと、今自分が向き合っている課題を提示するように、数少ないやりとりの中で前に出た。メガネくんがネットにかけた一球。あの時、確かに目が合った。
 メガネをかけていない以上、メガネくんと称するのはおかしい。どもることがない以上、カオ●シでもない。じゃああの時、あの場にいた人は誰だ。メガネくんを模した誰か。あの男は、私の知っているメガネくんではない。メガネくんがメガネくんとして照合し得るもの、打球。そうしてそれをパスした男は、例えメガネをかけていなかったとしてもメガネくんに違いない。
 そんな新生ノンメガネくんは、コーチとのラリーでも打ち勝っていた。今までも何となくその予兆はあった。けれどもパンドラの箱を開けるようにして、完全にそれは開いてしまった。不都合な真実。他の生徒の手前とか、大人の事情とか、メガネくんはその日、何かを譲るつもりがなかった。故に、完全に打ち勝っていた。安全なとか、安定したではなく、仕留めるための、攻撃の一打。本来あるはずだったメニューひとつを丸々消し去った防衛記録そのまま、研ぎ澄まされた無味無臭。ウソだ。
 集うは羨望、嫉妬。その場にいる人全員の視線を奪って佇む、その静かな静かな個体。それはメガネくんではないメガネくん。息を呑む。









この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?