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だったら構って



使わなくなった洋服を集めて、国内孤児院の子供達に届ける。届いた服の中から欲しい服を選ぶ子供は、綺麗なブランドの服ではなく、こぞって使い古された手作り感のある服を選ぶ。そんな光景を見たのは、何年か前に放送された「ファーストクラス」というドラマでだった。人のぬくもり、愛情を感じられるものを無意識のうちに選別するは本能。



豊かさ、という言葉を語ろうとする時、どうも啓発じみたきな臭さが発生するのは、単なる主観によるものだと先に断っておく。衣食住満たされて尚欲するもの。生きるという生物最大の目的は、いつしか仕方なく生きてる、生かされている気がしなくもない。これを平和ボケの一言で片付けてしまえるならたやすい。そもそもそんな傲慢な生き物に生きる価値自体あるのかなんて疑問は、神様に逆らう気がない以上、何らかの必要あって存在しているのだとふんわり納得していたい。


出典元を記憶していなくとも、残る言葉がある。本来根っこは離してはいけないのだが、おそらくはネット上の名言か何かだろう。

「今日最後に会った人は笑っていましたか」これを「最後に見たのは誰かの顔ですか。スマホですか」と置き換えてみる。相変わらずひどい横暴は、広い心でご容赦いただきたい。

いつしか画面越しのコミュニケーションが主になる。一緒にいても一緒にいない。目の前の実体を伴う大事な人より、ネット上での自分の方が大事。そのことを公私混同と称するに抵抗を覚えた所で「他人から見ればパジャマを着たまま」ということは往々にしてあり得る。どこまで行っても私。理想の私。

しかしそれが通用しない相手がいる。そう。猫である。

猫には読書という概念がない。キーボードを叩くという概念がない。増してやネットという概念、というか「概念」そのものが存在しない。だから彼、彼女らは「その目がどこを見て」いて「実際どう動いて」いて、それが「狩りのための動き」なのか「食事のための動き」なのか「リラックスのための動き」なのかを単純に分割する。故に、

座って本を読んでいること、キーボードを叩いていることは、3分割中どこに分類されるかは明確だ。それなら「何だヒマだったら一緒にのんびりしようよ」と膝の上に乗ってくる。ここまではいいとしよう。しかし我が家の子猫様は最近豊かさを追求するために、次の手を打ってきた。上体を起こして私の鎖骨に前足を置き、にゃあと鳴く。そのまま着席。ずり落ちないように、あわてて両手でそのお尻を支える。

〈ヒマなんでしょ。だったら抱っこしてよ〉


いやいやいやいや、せめて手だけは自由にさせて

「にゃあ🐱」

ですよねー。仕方なく背もたれに身体を預ける。見上げる。うれしそうだ。ごろんと喉元をさらして目を瞑る。落っこちそうだ。実に見事な「いにゃばうあー」(くだらねぇ)


そのあまりに無防備な姿に、いつしか人が生き物でなくなる日を思う。

生き物とは。


高尚とは。洗練とは。効率とは。豊かさとは一体なんだ。


冷たい画面越しに感性を揺さぶられること。単なる記号を「理解」して、生き方、考え方を変えること。実に高尚じゃないか。とても人間にしか出来ない高等技術だ。

「にゃあ」

そんなこと、まさかこの小さな生き物には理解出来ない。何年経とうと、この域には辿り着けない。「食べ」て「遊ん」で「寝る」しかない。実に単純な一生。


「にゃあ」


届いた服の中から、使い古された手作り感のある服を選ぶ子供。その単純で明白な幸せ。あたたかいものに惹かれるは本能。おかゆは



再び工作したダンボール「おかゆハウス」を、留守の間夢中で齧る。下にその破片があるから今日どれだけ齧ったか分かるのだ。この小さな生き物は見ている。人が「背中を丸めてカッターで工作して、その箱を取り付ける」までの工程を。おもちゃではなく、そのおもちゃ越しに楽しそうにする人の顔を。だからよく遊ぶおもちゃは決まっている。追いかけ回して、どこか隅の方に入れてしまって、それはいつだって同じものだ。この小さな生き物は、その向こうに見える豊かさと共に生きている。


分かっている。両手を占領してしまえばただの椅子に成り下がるしかない人の性質を。だから、そうして自分の時間を確保する。そうして

人の時間を奪う。違う。それは私にとって「生き物である人の時間」を生み出す行為。1日の中、たった数分でも私がちゃんと単純な生き物に戻れる時間。



君に教わることは本当に多い。みんな違ってみんないいって、何も人間に限った話じゃないよね。その違いが、立ち返らせる。




今日は何して遊ぼっか。

ねぇ、おかゆ。














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