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【2、表現者とサポーター(独り言多めの読書感想文、『海の沈黙』)
カリスマと呼ばれる人がいる。スティーブジョブズ、日向徹、それにこの作品の主人公、津山竜次。いずれも素晴らしい「作品」を世に送り出す天才だ。けれども一方で家庭がままならなかったり、最も信頼していた腹心に裏切られたり、耐え難い孤独を抱え込んでいたり、代償と言えるほどの大きな「闇」を背負っている。
全てを手に入れることはできない。何かを得る代わりに何かを差し出す。深く潜るために、別のところに皺寄せが行く。だから深く潜れることだけが誉とは限らない。それは失う前提で差し出すもの。
何かに夢中になること。
探求、掘削、自己実現。己の「好き」を好きなだけ追求できるならどれほど幸せだろう。けれどそれだけで生きてはいけない。それだけが全てではない。そんな時、いつだって大坂なおみ選手の「テニスは私の全てではない」を思い出す。どこかでブレーキをかけなければいけない。子供で、衣食住全てを母親に任せることができるならまだしも、そうでない以上、一定の時間で浮上しなければいけない。ふと「〇〇のために生きている訳ではないですから」という『80歳の壁』の構文を思い出す。
人は死ぬ。数十年後を憂うことのできる人は幸せだ。南海トラフで死なないと思えるのだから。私は今この瞬間、こうして吐き出すことができて幸せだと思う。テニスをする時、痛む場所がないことを幸せだと思う。イチイチ寄り道が長い。
津山竜次という男。画家として類まれなる才能を持っている男は、「降りてくる」と一心不乱にキャンバスに向かう。色を調合し、叩きつけ、時に筆だけでなく流木で線を引き、
けれども完成した作品が気に入らないと、手元にあるバケツを思い切りぶちまける。そうして作品にかかったその色まで含めて「キレイ」と言った、それこそが完成品だとした女性を傍に置いた。
美意識。美とはその人の中で絶対とされるもの。
第三者を経由しない、本人が納得できなければ然りとされないもの。だから決して理解されたいなどとは思ってはいけない。あくまでそれは個に始まり個の満足に終わるもの。例えば受け入れられることがあろうと、値がつくことがあろうと、全ては結果論。先んじて理解されたいなどと思ったが最後、自らの足で立っていられなくなる。孤高で至福。芸術とは、生み出すこととは、常に孤独との戦いなのだ。
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元より津山は孤高だった。類まれなる才能は、時に妬みの対象となり、足を引っ張られ、見合った対価を得られることなどなかった。ただ、その作品に魅了され、心酔がために対価関係なく男のために働きたいとする者が生まれた。その者達の助けがあることで、純粋に作品に没頭する時間が確保でき、さらに多くの作品を世に送り出すこととなる。
一方で、男は耐え難い孤独を抱え込んでいた。
幼くして亡くした両親。まぐろ漁に出たまま帰って来ず、大きな迎火とともに帰りを待ち侘びた記憶は、延々と男に海を描かせた。執着に他ならない。生活費のため、依頼されたもの以外、繰り返し海を描き続ける男は、「そうじゃない」と迷走し、いつまで経ってもたどり着けない苦しみから、ある日夢をみる。夢の中で男は傍で見ていた女に「赤をくれ」と要求する。絵の具のチューブを差し出す女に「違う、これじゃない」と激しく訴える。
「これじゃない。もっとあの時の、迎火の、あの、赤を。何で。何で分かってくれないんだ」
このセリフ自体、目の前の女性相手に言ったこととは限らない。
「それ」は悲鳴。己の中で消化しきれず、受け止めきれず、助けを求める。だからこの言葉の持つ本当の意味は「何で誰も分かってくれないんだ」。その時正面にいたのがたまたまその女性だった、それだけのこと。結局男は、自分の吐いた血を見て「この赤だ。この赤をもっと」と喜ぶ。
美意識。美はその人の中で絶対とされるもの。
だから決して理解されたいなどとは思ってはいけない。自立できなくなる。逆に、自立できている内は孤高。分かる人には刺さる限定的な魅力を付帯する。いつだったか書いたな。あれは『カインは言わなかった』か。表現者とサポーター。衣食住さえままならない表現者の側にはサポーターが必要で、サポーターは表現者の傍にいることで刺激を受け続ける。
平穏な日々には、あるいはそのどちらにも属さないのが幸せかもしれない。
〈そうすればきっと、今後はもっと穏やかで安定した、退屈な日々に戻っていたことだろう、と〉
いずれにしても優れた作品の裏にはそれを生み出す本人、それにそんな赤子を世話する人間の存在がある。そのバランスが保てて初めて作品は世に出続けられるのだ。
理解を求めず、己の美を探究し続ける覚悟をすること。
見返りを求めず、それだけの魅力に出会えたことに感謝すること。
一流と呼ばれる人達は、そうして豊かさの中を循環する。