記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

【3、ウスイという男(独り言多めの映画感想文、『海の沈黙』)


 タイムリーなことに、『グランメゾン東京』の続編、『グランメゾンパリ』が年末に映画上映される。レストランの料理人達が、ミシュラン三つ星を目指して奮闘する物語で、その中にフーディーと呼ばれる審査員が出てくる。
 美食家であり、一流と呼ばれるものを口にするため国を飛び回るこの女性は、けれど以前自ら推薦したレストランの審査でアナフィラキシーのトラブルを起こした経緯から、その犯人がいるレストランに星を取らせないと宣言する。星が欲しければその男を解雇しろと迫るが、シェフは「そんな椅子にしがみつくために自分のポリシーねじ曲げんのかよ」と反発する。
 
〈俺は、金や権力に媚びず、忖度もしないで、自分の舌だけを信じて、うまいものをうまいって世界に広めてきた、リンダ・マチコ・リシャールのことを認めている〉
 
 結果「うまいものをうまいと認めた」ために、リンダはオーナーから解雇を言い渡される訳だが、「本物のフーディーはね、自分の舌に嘘をついたら終わりなの」と言い放った顔は清々しい。
 本物、というのは確かに質がベースとなる。けれどそれ以上は、そこから積み上げられるものは、幾重にも派生し、結果それぞれにファンがつく。美もその一端。


 ウスイという男がいる。主人公津山の傍にいて、津山の生活全般の面倒を見、時に気にいるであろう「キャンバス」を調達し、対外的なやり取りも一手に引き受ける。マネージャーというのがニュアンスとして適当かもしれない。
 金に困っている風ではないが、裕福という訳でもなさそうな男の最たる特徴は「すこぶる姿勢がいいこと」。常に杖をついているが、立ち止まったその立ち姿に圧倒される。男は例え相手がその業界に置ける重鎮だろうと、一切物怖じしない。謎の多い男は、失うもの以上に、自分の認めた才を正しく発信することに信条を置いている。「本物のフーディーはね、自分の舌に嘘をついたら終わりなの」というやつだ。
 善いものを讃え、不相応なものを断じる。才ある者の不遇を、追いやった男への糾弾は凄まじく、重鎮を「さん」と呼び、津山を「先生」と呼んだ。
 
 美とはその人の中で絶対とされるもの。
 金額に換算したり、偉い誰かの評価があったり、本来美はそんなものに縛られない。ただ目の前にある作品を比べた時、どちらかが勝り、どちらかが見劣る。そんな真実。
 津山は贋作を作った。元の作品に筆を加え、表現し直した。3億の値のついていた元の作品。けれど贋作だからという理由で、元の作品、いわゆる本物より価値が低いと何故言える。贋作に3億以上の価値がないと何故言える。
 美はその人の中で絶対とされるもの。だから本来共通のメジャーでは測れない。本来その作品を欲しいとした人が複数発生した段階で価値がつくはずが、美という世間一般には曖昧とされるものを取り扱うために、セーフティーネットとして後ろ盾、権威を必要とする。何だってそうだ。先立つものがなければ始まれない。だから美術館は先払い。そこに琴線に触れるものがあろうとなかろうと、そうして一定の担保ありきでインフラは保たれる。別に美術館に限った話じゃない。後ろ盾、権威あるなしは、すなわちそこに関わる人数。
 だから大道芸といった個はどうしても立場的に弱くなる。こっちの方が遥かに分かりやすく、面白いとしても、現代は無料で楽しめるツールが多いあまりに、対価を要求すること自体、自他ともに息苦しさを感じざるを得ない。セーフティーネット。ただ本来美とはそんなものではない。
「その人」の心を揺さぶり、感動を生むもの。影響力そのもの。その人の作った作品だからいいのではない。「いい作品だな」の後にその人が出て来る。まず何に置いても作品ありき。
 
 ウスイの立ち姿は美しい。それは自分の目を信じているから。美しいものを美しいとする、その感性に従って生きているから。正直者が一番強い。正直者は正面から目が合う。己の心をさらすことに何の抵抗もない。
だからウスイは強い。津山はそんな凄まじいサポーターありきで、作品を世に放ち続ける。






いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集