『レジェンド&バタフライ』は夫婦を描いた物語だった、3(独り言多めの映画感想文)
男は再び姫を連れ戻すと、城に残し、自分は苦戦している戦の加勢に向かうと言う。その顔は既に何千何万の民の命を預かる者ではなく、ただ一人の夫。
女は城下町で買い与えられた蛙の置物を男に渡し、必ず生きて帰るよう声をかける。その様は今にも病で消え入らんばかり。だから男は再び「役目」を与えた。
〈南蛮の楽器じゃ〉
自分よりお前の方が覚えが早いだろうから、帰るまでに弾けるようになっているように、と言いつける。それを
これまで絶対に受け入れなかった女が、口を開けば喧嘩ばかりしていた女が、この時初めて「合点した」と言った。
これはただ役目を引き受けたのではない。「従わざるを得なかった」ではなく、初めて自ら従ったのだ。瞬間、感じたのは危機感。
戦を前に女を抱かないというのは『村上海賊の娘』(和田竜さん著)より。緩むからだ。何かを手に入れることで、警戒して落としていたはずの腰を上げた途端、眉間を撃ち抜かれる。それは木曽義仲の最期を彷彿とさせる。
今から命を賭けに行くという時、ぬるま湯の温度から自分を追い込むことは、恵まれた人間には非常に困難だ。男は「こんなものなくても帰ってくる」と笑いながら蛙の置物を受け取った。それは伏線に違いなかった。
本能寺を焼かれ、襲撃されて、一人奥の間「是非に及ばず」と手を入れた懐から出てきた置物。一瞬見た夢は「床の板を外し、まだ戦闘中の寺を後に城に逃げ帰る」というものだった。愛する妻とただ一組の夫婦として船旅に出る。再び子を授かるという「それ」は到底一国一城の主のすることではない。事実、今尚信長を守るため、従者は必死で戦っているのだ。けれど、
初めて会った時、どこの野良犬かと見紛うような、見るからに汚らしい男が、同じように汗に塗れ、泥に塗れ、血だらけで一人帰ってきたとして、「よくぞ帰った」と抱きしめずにいられるだろうか。恥が外聞がなんだ。ただ一人、その人の帰りを待ち望むは、正妻である自分だけだ。教科書では正しいとされないことも、自分にとって正しければそれでいいじゃないか。男は女の元に帰りたかったし、女は男の帰りを待ち望んでいた。弱い葦が呼び合った。ただそれだけのことを、一体誰が罰することができる。
男はそれまで責任を一手に引き受けてきた。地域の発展によって富が生まれ、経済が回り、仕事が増え、何千何万の民が生かされた。最期ぐらい、一人の男に戻ってもいいじゃないか。犯してきた数々の罪。自分が赦さずして他に誰がこの男を赦す。
女は、一人静かに眠るように息を引き取る。
その胸に抱き抱えたままの南蛮の楽器。
男は我にかえると、一人炎の中剣を振るう。
頸動脈から上がる血飛沫。見事な最期だった。
ただ一人に出会うことは難しい。
金銭感覚、価値観、趣味趣向。そういう意味では自由は逆に不自由かとも思えてくる。
ただ一人、出会うべくして出会った二人は、ただ幸せの内に逝けた。それは理想的な終わり方だった。
帰蝶。濃姫の別名であり、同一人物であると知ったのはこの時という低脳は、後になってからこれは夫婦を描いた作品だと気づく。歴史、史実。そんな字面ではなく、そんな事柄の中での個人の思い。
帰蝶。いい名だ。
いつかは帰るのだ。誰しも。
その人が帰りたいと思う場所へ。
それは実体があろうとなかろうと関係ない。ただ思うだけで叶うもの。
「好き」とも「愛してる」とも言わない。
そんなものではない。夫婦とはそんなものではないのだ。
人類における最も大きい差異。男女。
そんなバイアスがかかっている私もまた、被差別者でありながら立派な差別者。だからあくまで検体の一つに過ぎないが、この目からすれば染色体も脳みそもついてるものも違う、最も大きな差を前に、
自分に関係ない場所からとやかく言う前に、まずは自分の在り方を見直すだけで、個々その人その人にとって魅力的な生き方ができる気がして。
あなたにとってきっと大切な人と観たくなるような作品、ぜひ実際に映画館でご覧ください。
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