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病んでないわたしでも、好きって言ってくれますか

最近、あることを知って、自分の心のつらさや身体が治るかもしれないという希望が沸いてきた。一ヶ月がんばって取り組んでみたけど、がんばりすぎてまたこんな風に病んでしまった。

根本的な原因がなんとなくわかったけれど、でも、それを解決するにはあらゆる問題が山積みだった。何せ生まれた時から始まっている問題だ。根深い。どうやら時間もかかるらしい。

心が折れそうだ。もう諦めたい。病んだままでいたら理解はされないけど優しくしてもらえるし、群れて傷も舐め合えるからな。

でも群れて傷が舐め合える、といいつつわたしはツイッターで同じ悩みの人とか検索して、治療を頑張っているひとたちを見ても、共感以前に、心の中にじわじわと、どす黒い感情が湧いてくるのがわかる。だから目を背ける。

わたしはこいつらとはちがう。
わたしとあなたじゃ前提が違う。
わたしの方が正しくて幅広い知識がある。
わたしより明るいところにいるのが許せない。

なんて情けないんだろう。なんだろうこの万能感。まだその治療を始めてもいないのに。

わたしはそんなことを思う自分をとても醜いと思うし、そんな自分を人前に晒すなんて、いちばんやってはいけないことだと思っていた。

だけど今こうして人から見えるところに書いている。

自分の化けの皮を誰もはいでくれないから、自分からはがしていく。

不特定多数の人に見える場所で自分の化けの皮をわざわざはがすという行為は、わたしなんて、どうせどうでもいいんでしょという諦めがあって、わたしのこと、ちゃんとわかって欲しいという切望がある。

わたしなんてここでの影響力は大したことないし、対面でもないから、ここは安全圏だ。安全圏で化けの皮をはがしても、なんのダメージもないってのにな。ほんとクソ。

だけど、ほんとうはわたしなんて何ものでもなくて、クソみたいに平凡で、上には上がいて、わたしは中途半端でしょうもない人間なんだって、わかってるけど、それを認めるのは死ぬことと同じくらい怖い。

わたしより愛されてる人がみんな許せない。わたしを愛してくれなかった人も許せない。わたしよりわかりやすく不幸だった人さえ、許せない。

ほんとうは、みんなそれぞれ苦しみがあって、わたしを愛さなかった人も、たまたま間とか相性とかが悪かったんだってことも、もうわかってる。わたしなんかまだマシだってわかってる。

だけど湧き上がるどす黒い感情はどこへ向かわせればいいの。吐き出しても吐き出しても、また気づくと溜まっていて、わたしを蝕んでいく。

支配されることは減ったけど、だからなおのこと処理に困っている。

わたしは物心ついた時から病んでいたので、病んでない自分を知らない。だから完治するとわかって、その先に何があるのかわからない。

治ったら、自分じゃなくなるんじゃないか。そんな不安がある。治ってしまったら、病んだわたしをすきだった人はいなくなってしまうかもしれない。

病んでいないと、人の優しさに触れられない。

肌色の皮の袋に自意識と孤独と闇を詰め込んで生きてきたわたしは、病気が治ったら空っぽなのがついぞばれてしまうんじゃないかって不安なんだ。

「病名にとらわれることのあやうさ」だなんて偉そうな記事を書いておいて、その実自分がいちばん囚われている。まるで詐欺師だ。

「裸の人に着替えを渡されたら信用してはいけない」みたいな言葉を昔見たことがある。わたしはその意味を「自己犠牲を払って献身してくる人は詐欺師か依存体質だから関わるな」って受け取った。なぜなら自分がそうだという自覚があったからだ。

それなのに、わたしは今、やっと揃えた自分の服を切り刻んで人に渡している。ほんとうは寒い寒いと心の底では凍えながら。

これではほんとうに誰かを温めるなんてできやしない。

わたしに必要なのは、わたしを温めて欲しいと言える勇気なんだろうけど、ぬるま湯が心地よすぎて抜け出せないんだ。

寒くて震える肩に、そっとコートをかけてもらえるのをずっと待っている。

頑張って取り繕った表面の「いいこちゃん」でいるのはもう疲れたんだ。真面目、りこう、いい子。聞き飽きた。大嫌いだ。そんな言葉いらない。そんな言葉は本質を何も理解してない。

周りが怖くて仕方なくて、いつも演技をしていた。中身は空っぽで、多分綿かなにかが詰まっていたんじゃないかと思う。

親も多分、自分の気持ちがわからない、我慢の強い人だから、わたしは親と折り合いがうまくいかなくて、思春期は親大っ嫌いだった。

わたしがつらいのは親のせいだと思ってた。家庭環境に必死に原因を探してた。でも知れば知るほど、ただ歯車が噛み合わなかっただけだってわかってしまった。

そして今からわたしの苦しみを、親に理解してもらうことは到底無理なんだってことも、わかってしまった。

だからそんな無駄なことやめて、前を向いていこうって、自分のために生きようって決めたはずなのに。

やっと最近になってわたしにも人間の中身が詰まってるってわかったんだけど、人間の中身が詰まっていても、わたしの心の中には愛が足りてなかった。

代わりに詰まっているのは醜い自意識と承認欲求と自己愛。それを孤独の毛布で包んで必死に守っている。

そして病んでいた自分が持っていた刃物を振り回していた。その刃で人を傷つけて獲得してきたものは全部捨てたはずなのに、今度はその刃を自分に突き立てている。

身体はもう、刃物から手を離したいのに、心は「その刃物は生きていくために必要だ」って頑なに離そうとしない。

わたしを縛っているもの

「つまらない人間になりたくない」
「自分がどうしようもなく平凡な人間だと認めたくない」
「特別な人間にならなくちゃいけない」

そんなコンプレックスに縛られている。平凡な人間やつまらない人間とはどんなものだろうか。特別な人間とは。それをちゃんと答えられないくせに。わたしは心のどこかで他人を見下している。敬意を払えない。

そんな虚栄心ばかりが大きくなる、風船のような見掛け倒しの人間なんだ。

外が怖い。

わたしは、自分のテリトリーの外にはひとりでは出られない。

昔、家の敷地から一人で出られないことがあった。アスファルトがなんだか怖いものに見えて、外はとても寂しくて、怖い所のように見えた。

あのときは恐怖を押し殺してなんとか友達の家やよそに遊びに行けたけど、まだ一人で外に出られないわたしの心は、今でも敷地から出られなかった3才のあの日に囚われたままだ。

ほんとうは、外には素敵な世界があるかもしれないと言いながら、外に出られないでいる。足がすくんで動けない。外が怖くて仕方ない。他人が怖くて仕方ない。

原因はもはやわからない。

0才の時、あまりにも泣くから放置されていたことが原因なのか、泣き声が大きすぎて脱腸し、鼠径ヘルニアの手術を受けたことがトラウマなのか、母親が3ヶ月で仕事に復帰してしまったことが原因なのか。

確かめる術はない。でも、辛さの根本は多分その頃にある。

正直もう、身体の症状がつらい。生理のたびに動けなくなるのも、何か学びたくても頭が動かなくて先延ばしにするのも嫌だ。人と話すのは好きなのに、体は硬直するし、新しいことに挑戦できないし、会いたい人に連絡も取れない。

身体は治りたいっていってる。でも空っぽのわたしは、病気以外の自分を知らない。だから、もしわたしが、病気が治ったら、つまらなくなってしまうかもしれないと思っている。

そんなことないよって気休めが欲しいんじゃなくて、ほんとうにそう思ってる。根深い思い込みだから。

そしてつまらなくなれば、わたしを好きって言ってくれている人はいなくなるんじゃないかって思ってる。

だから、わたしほんとうは心は治りたくないんじゃないかなって。

「病んでてわけわかんなくて複雑なわたし」がアイデンティティだったから。わたしにとっての個性だったから。

笑わせようと明るく振る舞うのにも疲れたし、素直になれなくて苦しくて、みっともなくのたうちまわるのももう疲れた。被害妄想だって苦しいだけだ。なのにやめられない。

ほんとうに言葉にしたい気持ちはすごくシンプルなのに、相手に投げられないから心の中でどんどん膨れ上がる。

おまけに自分より病んでるのに、愛されている人を見ると悔しくなる。なんだそれ。ばかみたいだ。わたしはもうそこには戻らないって決めたのに、どうしてあなたはそこで魅力的に生きられているのって悔しくなる。

わたしはただのクズだ。

かつてメンヘラをこじらせて、あまりにたくさんの人を傷つけた。自分も含めて。毎晩真っ赤になるまでリストカットしたし、自殺未遂もした。ファーストキスの相手は恋人でもなんでもない、歳の離れた既婚男性で、自棄になって行きずりの相手とも寝たし、男性関係は一時期かなり荒れていた。あまりにもひどいことした。そのことを今はひどく後悔している。もう2度としない。でも、わたしの死を願っている人もきっとどこかにいるだろう。でもいまだにのうのうと生きている。

おまけにつらい思いをしている人の力になりたいって言いながら、ほんとうは、そんな仕事に就きたくないって思ってる。

だけど、治ったら、病んでない素直なわたしになれるのかもしれないって、今よりずっと魅力的なわたしになれるんじゃないかって。ずっと言えなかった言葉が、ちゃんと言えるようになるんじゃないかって淡い希望を抱いてもいる。

でも、同じくらい失うのが怖い。何が怖いかと言えば、「病んでいる」という個性、あるいは共通項だ。病気が治るということは、病んでいる人の共感を得られなくなるということだ。

わたしは病んでいる人が好きな人が好きだ。わたしにやさしいから。病んでいる人の独特の闇をまとえなくなるということだ。

あの詩的なうつくしい闇を引きずって、病んでいれば周りが手を差し伸べてくれるという幻想を抱え込んで生きてきたわたしにとって、それを取り除かれるとわたしにはつまらないものしか残らないんだ。

それを失うことは、今まで大事に守ってきた、自分だけの弱くてやわらかい部分を捨てるということにほかならないんじゃないかと怯えている。

でも、身体がつらいことに気付いてしまった。こんなでは、やりたいこともできないと気付いてしまった。大事な人も傷つけると、気付いてしまった。

でも病を治してまで、今のぬるま湯を捨ててまで、行きたい場所がわたしにない。

わたしにあるのは、いずれひとり取り残された後、孤独で惨めに死にたくない、というただの情けない執着だ。

これは最後の壁だ。わたしがわたしとして生きるための、最後の壁なような気がする。

病んでいないわたしでも、好きでいてくれますか。とてつもなくみっともない、こんなつまらないわたしでも、好きでいくれますか。

ただのわたしを好きでいてくれますか。

おねがいします。嫌わないでください。
わたしのことを、見捨てないで。

置いていかないで。


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逸見灯里
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