宗教で禁欲するのはナゼ?
宗教と禁欲って、つきものですよね。
原始仏教でも、カトリックも、出家者または司祭には、性的な禁欲(=不淫)を求めています。
で、どっちもたいがい守れていなくておかしなことになってる。
この間、「仏教が好き!」という、河合隼雄先生と、宗教学者の中沢新一先生が対談するこの本
Amazon.co.jp - 仏教が好き! (朝日文庫) | 河合 隼雄, 中沢 新一
を読んでいたのですが、ここに、「律蔵」という、
ブッダが「お前は(不淫の)戒律を犯した」と認めた時の判例集、みたいな経典が紹介されています。
・・・内容があまりにお下劣なので引用しませんが、ブッダの弟子は、戒律を犯さずに、性欲を満たすためにずいぶんといろんな創意工夫を凝らしたんだなあ、ということがわかって大変興味深かったです。
(興味のある方は、ぜひ上の本を読んで見てください…)
また、世界中でカトリックの聖職者による、組織的な児童性的虐待が大きな社会問題になっていますが、その内情がわかるようになればなるほど、
「これはカトリック教会の中で、ずーっと歴史的に行われてきたことで、子供の権利が言われるようになった現代だからこそ、問題化したんだろうな」
という感想を持たざるを得ません。
・・・禁欲を強いられているから、・・・女の人の代わりに男の子をずーっと代わりにしたんでしょ・・・?ってね・・・。
で、なんでこんなことをつらつら書いているかと言うと、この「禁欲」ということがものすごく強調される、そしてそれが守れなくて大問題になっている時点で、
宗教というのはとても
「男性的」
だなあ、と思うんです。
禁止されているのに、それでもあえて、ものすごい創意工夫を凝らして満たさなければならない性欲、、、なんてものは、女性にはあんまりない気がするんですよね…。
私の感覚としては、
ワインが大好きで、一生飲めなかったら確かにとても寂しいけれど、なくてもまあ、ジュースを飲めばいいから何とかなる、、、みたいな。
でも、男性の性欲とは、そういうものとは全然次元の違う、体の底から飛び出してくるようなパワーを持ったものなような気がします。
そもそも、宗教が「禁欲」を命じる背景には、「性欲」がものすごい抑えがたいパワーを持つからこそ、それをあえて抑圧することによって、爆発的な精神的な力が出てくることを期待する、ということがあるんだとおもうんです。
女性である私の身体原理とは、どうも少し違うところにあるような気がするんですよね。
だから、いくら仏教や瞑想の勉強をしてみても、最後のところで、女性である私には理解できないし、私が必要とするものとも違ってくるんではないかと。
もっと女性の身体原理に沿った宗教実践、みたいなものはないのかな…?
女性の宗教実践者はたくさんいますが、女性が開いた宗教、ってあんまり聞いたことがない気がするのですが…。
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