授業出席を求める側の思い
授業への出席とは何か。考えを整理してみたい。
以下、高等教育機関(大学・高専)での工学(エンジニア)を育成する立場としてなので、国語や数学の授業とは異なるかもしれないことを断っておく。共通する概念はあると思っているが。
学校での成績評価に関して、出席点を与えてはいけない、というのは文部科学省(学位授与機構?)から示されている。と書きつつ、原典は確認したことはない。
大学教育においてある講義の単位について、最終試験をパスすれば出席なんて不要という考えの大学の先生の話はネットの世界で目にすることがある(多いかどうかは不明だが、目に留まる)。高等教育機関(大学・高専)では授業シラバスにおいて学修到達目標が明確に定められており、それを達成したら合格を認定するし、その達成度合いに応じて秀・優・良・可・不可(100点法の場合もある)の評価(評定)が与えられる。目的と手段が分離された、1:1に対応する、非常にシンプルでクリアな考え方である。
多分「学修到達目標」の考え方は日本独自ではなく国際標準であって、単位を取得するというのはそういう風に明確に定量化できるという前提に立ったものだろう。学問は本当に定量化できるのか?という問いは置いておいて、そういう仮定・仮説に立った共通ルールにしよう、というお約束・ロールプレイに近い気がする。運転免許の学力試験は、○%の得点率で合格するのと同じである。
「履修」という概念がある。「履修届を出す」という言葉があるアレだ。履修届を出すのは単位を修得するためのスタートであり、履修をすることのフィニッシュは「履修を完了した」ということだろう。合格(単位修得)とは少し異なる。その基準は全国共通かどうかはわからないが、一例として、総授業数の3分の1以上を出席した場合、その科目を「履修した」ことになる。単位を修得する話とは別で、その授業が求める成績評価(試験やレポート)において合格にならないと単位は修得できないが、出席数を満たせば履修したことにはなる。
学生の立場に立つと、授業に出席しなければならないのは履修をしないと試験が受けられないためであり、出席は試験を受ける権利を得るためのもの、と理解されることも多い。欠席が3分の1を越えたら試験を受けられない、みたいな。
さて、誤解を恐れずに言うと、教員側の立場としては、そもそも前述のようにこの試験で○点を取ったから合格とか、評価が優だというのは、ある意味違和感もある。ある意味とは、そもそも評価をする(合否を決める、成績を定める)ことだけが授業の目的ではないためである。
科目を教えるにあたって、その科目を修めるには最低この知識は持っておいて欲しいというレベルはあるし、その科目だけでなく次の関連科目にステップアップするためにはこの知識も必要だし、というのを総合的に考えて授業設計をしている(必要と思うならシラバスに書け、試験で評価せよ、という反論は予想できるが、シラバスのボリュームも限られる)。私のような工学系の高等教育機関の教員であれば、その専門分野の職業人(エンジニア)を育てることが最終目的なので、担当する授業の中に色々な内容を盛り込む。その「科目」を修めることという狭いことだけに主眼はなく、数年かけてその分野のエンジニアを教育することが主の目的である。
公文式だったり、四谷学院55段階個別指導、のように細かいステップに分けてクリアしていきそれを積み上げていくのは理にかなっていると個人的に思っている。大学や高専では、100数十単位で所定の学位が得られるが、2単位1科目として仮に総科目数が60個として、専門科目はその半分の30科目と仮に定めよう。そのエンジニアとして満たすべきスキルを30個に分割して評価するのは大雑把すぎはしないだろうか。1科目という大きな枠の中で60点合格をすることが、本当にエンジニアとして良いのだろうか。もっと細かく割っていくと、15回や30回の授業で割って、1回の授業ごとに達成度評価があって合格して積み上げていくという考えもあるだろう。単元別評価、という概念は既にあり小学校の頃から親しんでいる。そんな感じである。
授業を受ける話と、授業中に小テスト等で理解度を測るのは別の話であるが、とにかく授業において満遍なく知識を身につけることに意義はある。そういうことを書くと、出席だけを強制すること自体がおかしく、必要なら毎回小テストをすればよいではないかという反論は予想できる。小テストがなければ授業に出る意味が無いと考えているのであれば、そうでないところで授業設計をしているということを伝えたい。
運転免許の話に戻るが、現時点では「赤信号を無視する」に「マル」を付けても総合点があれば合格できる。禁忌肢(きんきし)問題は存在しない。一方医師国家試験では禁忌肢問題はあり、その問題の中から一定数以上間違えると総合点が高くても不合格になる代物である。正確には調べ切れていないが、その判断の誤りが直ちにor根本的に命に関わるような技術的内容に、禁忌肢問題が選ばれているように感じた。
単位を取得するため最終試験で得点するにはこの回の授業は必要な知識ですよという老婆心から出席を求める部分と、知らなくても単位は取れるだろうけど将来のためにこれ絶対に大事な知識だから知っとけよという禁忌肢問題的な考えから出席を求める部分、その両方が出席を求めるという概念に混在しているのだと思う。
試験を実施すること、出席をとることはあくまでも手段である。手段は目的を達するためのひとつの方法であり、全てではない。手段だけをみて批判されることはあるが、ズレている。目的の良否を見る必要があるだろう。
出席点の可否
終わりに。授業にそういう思いがあるという教員側の思いはは学生には理解されない場合が多い。出席して楽しい、得るものがある、という授業をするのが望ましいしそうありたい。出席点を付けたいと思う教員の気持ちは、前述のようなものなのかなぁと推察している。次の感じに似ていると思う。
大ブレイクした有名クリエイターの映画なり作品は、クリエイターの指定する順番で見て下さいというのは許されるし、そういったクリエイターの作品はリスペクトされる。大ブレイクした有名ラーメン店の頑固店主は、この順番で食べろというのもそういう全体が一種のエンターテイメントや儀式として受け入れられてて信者も多い。高級寿司店は、お任せコースのみで、悪い言い方をすると職人の方法の押しつけであるが、文句を言う人は来ない。
高等教育で属人的な授業では教育機関が成り立たないため、ある程度画一化されたルールや内容で行う必要があるが、知識の切り売りではない。大学だと、学ぶのも学生の自由、どれだけのことを吸収するかは個人に差があって当然という自己責任であろう。それを否定するつもりはない。
出席点を付けたいと思う教員が考えることは何だろう。学生の段階では勉強の面白さ、楽しさ、積み重ねの重要性は必ずしも気づいていない。出席とらないからといって安易に欠席し、その結果最終試験で点が取れなくて困ってしまいがちな学生に対して、出席するインセンティブを与えておくということだろうと推察する。
このことで悩んでいるわけではないが、模索は続けたい。
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