《半可通信 Vol. 8.1》 なおも考えつづける(エスカレーターのことを)
前回はエスカレーターを題材に、あるシステムが存続するには誰かの具体的な利益になっているはずだ、ということを具体的に考えてみた。というか、考えることに着手してみた。
とりあえず前回は、
・エスカレーターの当初の目的はスピードではなく省力化であったと思われる
・時代の要請(?)により、スピードに貢献することが期待されてきたようだ
・しかし今また時代の要請により、時間効率よりもむしろ安全を期待されている
というところまで整理した(いや、整理されてるのか?)。
ここで、よほど察しのいい方でないと気がつかないかもしれないが、一つの気づきが実はあった。
この一連の変遷って何かに似てる。何か。あれだ、進化のメカニズムだ。
えーっ? って思う人もあるかもしれない。丁寧にだが簡潔に行く。
前回、「機構は意図された目的のとおりにだけ使われるとは限らない」と書いた。ここがポイント。現在、一般的に共有されている進化のメカニズムは、ざっくり言うと
①遺伝子の突然変異にによる表現型の変化
②生息する環境における、その表現型の生存可能性の確定
③環境を生き延びた表現型の個体群が、適応した種として存続する
といったところだろう。ちなみに、表現型というのは「生物のもつ遺伝子型が形質として表現されたもの」で、その形質というのは「形態、構造、行動、生理的性質などを含む」もの(Wikipediaによる)。
ここで大事なのは①、つまり、まず突然変異ありきだということ。当然ながらその段階では、もたらされる表現型の変化が、環境との関係でどういう機能、役割、そして効果をもつか、あるいはもたないかは、全く予見できていない。たまたまもたらされた表現型(たとえば前脚のかたち、とか)が、環境においてどういう機能を発揮し、それが生存にとってどう有利/不利であるかは、あくまで環境との関係によって決まる。なので、同じ表現型であっても、ある環境では生存に有利で他では不利、といったことが起こりうるし、環境が変化すれば生存可能性は激変しうる。エスカレーターの歴史で起こっていることは、なんとなくそれを想起させる。
ちょっと、教養主義っぽくなってきた? いえいえ、そんな簡単に行くものでもなさそうです。
エスカレーターの受容の変遷を「進化と同じで適者生存と変化だ」と言ってしまうとそれっぽいが、それはかなり危うい議論だと思うのだ。これは、世に言う社会ダーウィニズムが眉唾なのと同じようなもので、一見アナロジーとして有効なように見えるが、疑似相関のようなもので実は本質的な類似ではないと思うのだ。
最も重要なのは、環境の変化は人間自身が起こしているという点だ。つまり、環境は単なる外から与えられた条件ではない。人間が変えられるのだ。
エスカレーターが時代の要請により安全を強く期待されるようになった、と書いたが、個人的にはそういう時代がもっと早く来ることも可能だったはずだと思っている。むしろ、スピードに最大の価値が置かれる社会は、矛盾を溜め込みとっくに疲弊していたのに、人間の社会がそれを「変えなかった」んじゃないかとさえ思う。
何がそれを「変えさせなかった」か……ここを問うことが、本当の思考なのだと思っている。
今回のお話はここでおしまい。「え? ここから更に突っ込んでいくんじゃなかったのかよ!」ってお思いの方もあるかもしれませんが平にご容赦を。思考をオープンエンドのまま仮固定して、次の自由な思考の発展に期待するのもまた、「ゆるふわ教養主義」なのであります。
一つだけおまけで付け加えると、個人的にはエスカレータの大胆な機能改革か、新しい種類の安全性の高い昇降用の機械を開発するベンチャーなんかが、立ち上がらないかなあと思ってます。ではまた。