《半可通信 Vol. 8》 態度を仮決めしつつ、考えつづける(エスカレーターのことを)

 結局、前回書いたことを考え続けていたのだけれど、考えはじめるとどんどん拡がって手に負えなくなり、フリーズしてしまっていた。しかしこれ、ゆるふわ教養主義的には最も回避すべき態度なので反省しきりである。大きな主題からいきなり切り込んだり、大きな主語で語ったりするのは厳禁。全体を意識するにしても一旦は棚に上げ、必ず個別具体的でローカルなところから入り、とりあえずの射程を限定する。うん、そうだ、これ千葉雅也さんが「勉強を有限化する」って言ってるのと、多分同じだ。くだけた言い方なら、「こんなところだ今のところ」…お、これは谷川俊太郎さんの「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」だな(名作なので、ぜひ探して読んでみてください)。

 そうは言ってもそのまま放置もなんなので、簡単な続きを書こうと思う。具体的には、前回使った例の一つに的をしぼって、ちょっとした思考実験をしてみる。
 その前にまずは、ざっくりとおさらい。人間に無理や負担を強いているシステム、言い換えると人間のスペックに見合わないシステムが動いているのには、それ相応の理由があるはず。つまり、誰かが(何かが?)そこから利益を得ているはずだ、ということ。
 前回の例のうち、エスカレーターを取り上げてみたい。都市への人口集積というのはわかりやすい分、大上段の議論になりやすいし、それはまたそのうち別の機会にしようと思う。一方エスカレーターは、利用者個人への具体的な恩恵もハッキリしているので、議論が発散……いや、面白くなるはずだ(笑)。

 エスカレーターの当初の目的が「省力化」であって、速さでなかったことは間違いなさそうだ。スピードという点では階段を歩いたほうが早かった(今だってそうだ)。また、バリアフリーという概念も実用化された20世紀初頭にはなかったはずだ。
 だが、機構は意図された目的のとおりにだけ使われるとは限らない。片側を空け、そこを歩いて上り下りする人の通路とすることで、エスカレーターはなんとなく時間短縮を期待される乗り物になってきた。それから、動作速度もかなり速いものが出てきて、今では標準的な注意力と運動能力があっても乗り降りの際にハラハラしそうなものもある。これも「エスカレーター遅いよね」という、スピードへの暗黙的なプレッシャーの賜物っぽい。
 あと、競合製品であるエレベーターとの棲み分けも、スピードの観点でなされているように見受けられる。たくさん階を上るにはエレベーターが有利だが、少ない階数では待ち時間のロスがあり、それがないエスカレーターのほうが有利だ。おそらくそんなことから、エレベーター一強ではなくエスカレーターも存続することができたのだろう。
 かつてはともかく、今となっては安全性はエレベーターのほうが格段に上だろう。なのにエスカレーターが(今のエスカレーターの機能と安全性で)存続しているのは、ひとつには少ない階数における時短効果と、設置した以上は継続するほうが安くてラクという、いわば惰性だろう。と、こんなふうに整理すると、最近エスカレーターの安全な乗り方がよく言われるようになったのは、一つの節目かもしれない。後付けの利点である時間効率から、本来の目的である「ラクに快適に」と、そしてその発展形である「誰でも安全に」へとシフトしつつあるように思う。
 さて……ここからが考察本番だが、長くなるので今回はここまで。次回はさらに深い鉱脈まで行きつけることを祈りつつ。

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