《半可通信 vol. 2》 「歩くこと」について、多面的なシロウトになる

 このたび、「歩行者」という、それ肩書きかよって突っ込まれるに違いない肩書きを掲げてみた。そのくらい、歩くということが大好きだ。人間の移動手段の基本だということはもちろん、その速度、感触、目に映る風景、時間経過の感覚、それら全てが自分の思考と行動の基盤であり、全てでもあるようにさえ思う。
 だからといって、「歩行の専門家」になれるかといえば、もちろんそんな自信はまるでない。だから「歩行家」ではなく「歩行者」なのだ。まんま、ペデストリアン pedestrian なのだ。シロウトとして歩く者。でも、せっかくこれほど歩くのが好きなのだから、「歩く」ということをいろいろ多面的に見てみたいと思う。
 歩くといえば、何をおいてもまず散歩だ。散歩、散策。「散」という文字がよい。気が散るとか取っ散らかるとか、そういう何かに集中なんかできてない感じがよい。散歩ってそういうものだなあと思う。目的地への移動ではなく、歩く過程だけで成り立っている歩き。そういえば前回取り上げた「超芸術トマソン」も、そんなそぞろ歩きこそが生み出しうる発見の賜物だろう。寄り道の快楽とも言えるか。
 次に思い当たるのは、ウォーキングだろうか。そもそもこの言葉、原語では「歩く」という総合的かつ基本的語句なのに、日本語ではより限定的な意味合いを帯びている。つまり、「健康のために」歩く。むむ、散歩と比べて、何だろうこのつまらなそうな感じは……と思ってしまいそうだが、案外そうでもない。何しろ、ウォーキングも「目的地への移動ではなく、歩く過程だけで成り立っている」という点では散歩と同じなのだ。ただその「過程」において注視する方向、ベクトルが違う。散歩はひたすら周囲に視線を向け、一方ウォーキングでは歩く人自身の身体に注意が向く。体の各部位の動きや全身のバランスを意識し、その状態を全身で感じるというプロセスは、これはこれでなかなか楽しい。
 ただ、散歩とウォーキングを同時に実行しようとすると、結構な利害衝突がある。周りをきょろきょろ見ながら歩こうとすると、ウォーキング的には望ましくない姿勢になりやすい。姿勢の維持や力の入り具合に集中すると、周りの風景がろくに目に入らない。両方同時というのは、できそうでなかなか上手くはできない。やろうと思ったら、意識しなくても正しい姿勢でウォーキングができるまで鍛錬するしかないのだが、つまるところそれは武術家の鍛錬と同じで、正しい練習法で幾度も繰り返し行うことでやっと身につくものではなかろうか。いわゆる臍下丹田を押し出す意識で、とか、腰骨の上に背筋を立てて力を抜き、とかなんとか。頭の中が真っ白でも自然とそういうふうに体が動くなんて、谷亮子さんではないので無理、という気がする。ようやく身についた頃には人生店仕舞い、なんてことになりそうだ。
 そんなわけで、今日も時々思い出したように歩く姿勢を直しながら、空を見上げ木々を眺め、どことなく中途半端に散歩のようなウォーキングのようなものをしている。いささか不本意である。とはいえ、散歩もウォーキングも、さらに言えば街歩きも遠足もハイキングもと欲張るからには、どれかを極めるのは一旦脇に置いて、あれもこれも楽しもうと思う。こんなどっちつかずウォークでも、不意に訪れる発見の瞬間はいくらもあるはずだし。

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