《半可通信 vol. 4》 読書という体験(きわめて個人的な)
少し目先を変えて、今回は読書について語ってみようと思う。といっても、読書量が少ない自覚はあるので読書自慢ではない。その逆である。
いきなりだが、皆さんにとって、本を読むというのはどういう体験だろうか。もちろん、いろんな要素があって一概には言えないという方も多いだろうが、あえてそのうちで自分にとって一番重要なものは、と問うてみる。自分を変えること、とか、もう一つの世界を体験すること、とか、そういう人は多いだろうし、私もそう感じることはある。
でも最近強く思うのは、本当に「刺さる」読書体験は、ハレーションのようなものだ、ということだ。そう、世界が真っ白になり、目が眩む感覚、あれだ。読書量を増やそうとしてもなかなか増えないのは、このへんに理由がある気がしている。
最近、岸政彦さんの「断片的なものの社会学」を読み始めたのだが、コラム1つ読み終わるごとに立ち止まってしまっている。大きく深呼吸し、目を閉じ、そのあとすぐに次のコラムに進むことができない。ただひたすら、胸の内に生じたざわつきとしばし向き合い、静まるのを待つ。
社会学者である氏がつづる、社会学的な分析やまとめからはみ出てしまうエピソードには、どれも独特の味わいがあって、文章の向こう側にもこっち側にも色々と想像は膨らんでいく。とはいえ、では世の人々が私ほどいちいち立ち止まりつつ読んでいるかといえば、そうとも考えにくい。だいたい、こんな読み方をしていたら、それこそいつまでたっても読み終わりそうにない。
なぜこういう読み方になるのかと考えるうちに、同じものを読んでも受け取る情報量がふつうの人より桁違いに多いんじゃないか、と思うようになった。より多くを受け取っている、とかいう単純な話ではない。むしろ、ふつうはハイビジョンで観ていればいいところをわざわざ8Kで観ているようなイメージに近い。解像度が高すぎるために認知処理のリソースを大量に消費してしまい、疲れてしまう。ハレーションがそうであるように、溢れんばかりの圧倒的な情報量の光を浴びせられた意識は、目の前が真っ白にはじけて、しばらくのあいだ他の何かの像を正しく捉えることができないのだ。
この体験には突き抜けるような恍惚感があり、とりとめなく連想が展開する豊かな時間でもあり、その点では悪くはないと思っている。一方で、同じ文章からより精細に読み取ってしまうというのは、過剰に行間の意味を見いだしてしまっている可能性もある。言ってみれば、連想が膨らんで含意を広げすぎた結果、他人には同意してもらえない読解、いわば勇み足になってしまうこともあるということだ。とはいえこれは「深い読み」と紙一重でもあるはずなので、あまり無下に手放したくないようにも思う。
ほどよく読む、ってどんな感じだろう、と時々思う。たまに、それを試そうとして意識的に読書の解像度を下げてみるのだが、逆に低解像度に思い切り振れてしまい、意味を剥奪されたことばたちが頭の中をむなしく流れていくばかりだったりする。いつかは丁度いい塩梅で本を読めるんだろうか。そうなったとき、その読書体験はわくわくするようなものであってくれるだろうか。なんとなく、それは宇宙の熱学的な死のような、何も感じない世界だったりするのではないか、と根拠もなく妄想している。