《半可通信 vol. 3》 鯨のようにしなやかに、機械のように精妙に

 このところ定期的に泳ぎに行くようにしているのだけれど、ひとしきり泳ぎ終えてプールサイドでストレッチをしながら、目の前でゆっくり滑らかなクイックターンをしていく人にちょっと見惚れてしまった。黒いスイムウェアということも相まって、それは大きく美しい鯨がゆったりと潮吹きに浮上してまた潜っていく動作のように見えた。
 二度目のターンのとき、少しじっくりとその動きを観察してみた。泳ぐ動作からターンの準備に入るとき、少し全身をしならせて、加速度的に頭を沈みこませる。そして鞭を打つように前転しながら体をひねり、プールの壁を蹴る一瞬に力を集中させる。そしてリリース。伸び。ゆったりと泳ぎ出す。一連の滑らかで美しい動作が、精妙な身体コントロールの組み合わせから成っていることを改めて意識する。
 カナヅチではないものの、クイックターンは自分にとっては別世界のようなものだった。でもこうして間近でよく見ていると、身体の使いかたと力のかけかたを、要素ごとに分解して地道に訓練すれば、できるんじゃないか、という気がした。力のかけどころと脱力するところの塩梅とか、そのときの姿勢の取りかたとかが、なんとはなくだけれど想像できる。こう思えることは、昔の自分と比べると大きな変化だ。何しろ、子供のころは運動音痴で、体育もスポーツも楽しくなくて運動嫌いになっていたのだ。
 それが、今では身体技術について学ぶのが何においても楽しくなり、いろいろ応用できるようになったのには、いろんな経緯がある。ひとつは、家人たちが合気道を習っていて、その知見を聞く機会があったこと。合気道は、自分の力を使わずに攻撃相手の動きを止める方法、と言えばいいだろうか(諸流派あり、違う考え方もあるだろうが)。ということで、相手の動きや気配に応じて自在に動けるよう、まずは脱力した状態が基本にあり、それをベースにした身体技術が究められている。これを知るまで、自分にはそもそも「脱力する」という発想がなかった。何をするにも、要らぬところに要らぬ力がかかっていて、それがかえって身体操作を不自由にしていたようなのだ。
 もうひとつ大きかったのは、ピアノのレッスンを再開したことだ。自分の弾き方にいろいろ問題があるのはわかっていたので、子供のころ以来久々に門を叩いたのだが、つまるところその問題とは無駄な力が入っていること、そして無駄な力がかからないような正しい姿勢でないこと、この2点だった。特に後者については、なぜいつも背筋が伸ばせず姿勢が悪いのか、という座る姿勢全般の問題にまで気付かされることとなった。ピアノおそるべし……ではなくて、無駄のない力の使い方をするための姿勢って、すべてに共通のテクニックだったんだ、と気付かされた。そしてこれは合気道における脱力の基本姿勢にも通じていたりする。
 それにしても思うのは、どうして子供の頃に運動の技術を理論的に手ほどきしてくれる人がいなかったんだろう、ということだ。いいかげん大人になってからでは習得にも時間がかかるし、だいたいこれまでその技術を知らなかったことへの後悔が半端ない。水泳はたまたま大学生の頃にクロールの基本を教わる機会があったからまだよかったけれど、走ることに至ってはあれほど体育の授業があったのに「腕をよく振れ」以上のことを教わった記憶は全くない。今どきは少しはマシになってるかもしれないけれど、かつての精神論一択の体育文化は何だったのかと思う。気合いと気持ちで身体が自在にコントロールできるなら、誰も苦労はしない。
 そう、身体なんて最初から自在にコントロールできる代物ではないのだ。鉛筆を持ったり箸を持ったりだけでなく、歩くにしても走るにしても、見よう見まねとトライアルアンドエラーと、そして指導があって身につけていく。そうやって、力が効率的に伝わり、長く続けていても疲れが溜まりにくいような、上手な身体の使い方というのが習得されていく。つまり、身体というのは自我にとっては外部であり他者であり、手なずけて使いこなさなければならない機械(と言ってどぎついようなら、機構/メカニズム)であるということ。そのことを、もう少し人生の早いステージで知っておきたかった。もちろん、今知ってよかったと思うし、今の時代にはきっと若いうちから気づく機会があるのだろうと思うと、それはそれで嬉しい。

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