《半可通信 Vol. 11》 ささやかな日常を頑なに守ること
このところ世の中があまりに酷いことばかりで、正直言って「ゆるふわ教養主義」を掲げて「歩行者」してられるような気分ではなかった。この国は、どこまで転げ落ちていくつもりなんだろう。みんなそれでいいのか?!
……いやいやいや、そういう態度がこの場所には一番似合わない。落ち着け自分。
ともかく。そういう日々であっても日課のように近隣を歩いたり、少し街へ出て歩いたり、していたのだが。しかし、とても以前と同じように見ることができないのだ。
一歩家を出れば、のどかな郊外の風景のなか、健康のためにゆっくり歩くお年寄り、親に迎えられて家路に向かう保育園児、買物袋を提げた仕事帰りの男女……日々の暮らしに一所懸命で、そしていきいきとした人々と行き交う。それは、街が生きていると思う幸せな瞬間だ。
しかし、その光景を目にしながらも、今この国で起こっているさまざまな、危険な動きのことが、頭にこびりついて離れない。兵器の爆買い。農産物での米国への大譲歩。世界に恥ずかしく、国内産業のためにもならない嫌韓煽り。東京インパール2020と揶揄される五輪の体たらく。誤魔化され続ける公文書改竄や不正。その先にあるのは憲法改定と「戦争できる国」なのだろうとしか思えないほどの、言論と表現の自由への攻撃。いま目の前にある幸せな光景が、いまこの瞬間にも吹き飛ぶかもしれないという怖れで、内心の震えが止まらない。
しかし、穏やかな日常のすぐ裏側にそれを一瞬にして崩壊せしめうる恐ろしく激しい潮流が渦巻いている、そう思わせ恐怖させた時点で、ある意味それを目論んだ側の企みは成功しているのだ。彼らの目的は、萎縮させること、黙り込ませることだからだ。
だからあらためて、こんな脅しには屈しない、という決意が必要だ。とはいえ、人間は心の動物だから、ただ「決意する」というだけではとても持ちこたえられない(少なくとも私はそう)。
こんなときに思い出すのが、以前も引用した吉田健一の言葉だ。
「戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。」
こんなときだからこそ、この恐怖に囚われないためにこそ、みずからの生活に固執するべきなのだ。
吉田健一のこの言葉が出てくる短いエッセイは、実はそれ全体としては、一般民衆の痛みも苦しみも知らないエスタブリッシュメントのお気楽な見方に過ぎない、という読み方もできてしまうものだ。しかしそこから敢えて、立場や時代を超えて普遍的なものを汲み出し、大胆に意味を読み替えてみよう。
「古傷は消えねばならない」とは私は思わない。人間は忘却する動物であり、愚かな動物であるから、愚かさの記念碑というのは絶対に必要だと思う。だが、そのことばかりに心を砕いていると、たぶん心の中の絶望の分量のほうが多くなってきて、打ちひしがれてしまう。守るべき美しいものが、私たちには必要なのだ。そしてその中心をなすものは、平凡な日常のなかのささやかな幸せ、ちょっとした驚き、心のゆらぎを抱きしめるやさしい瞬間、そういったもののはずだ。それをどうしても守り抜きたい、と思ったときにこそ、強大な力に直面しても簡単には引き下がらない強さが生まれるのではないだろうか。以上、自分への戒めとして。