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【感想】NHK 歴史探偵「東京“遷都”大作戦」を視聴しました

2022年10月26日(水)22:00~22:44、NHK 歴史探偵「東京“遷都”大作戦」を視聴しました。

<始まる前に>
私は京都に戻していいと思いますね、首都を、というか皇居を。
江戸幕府が滅亡して明治政府になった時点でなぜ戻さなかったのか?
すこしナゾですね。

<NHKのあらすじ>
千年の都・京から東京に都が移る!?
京都の人々の強硬な反対、東京の人々の新政府への反発、数々の難題を乗り越えて実行された「遷都」計画に秘められたドラマに迫る。

■スタジオで
日本の首都といえばどこでしょうか?
佐藤所長「東京でしょ!違うの?」
「平成30年の日本の首都に関する質問に対する衆議院答弁書」によると、
“首都を東京都と直接規定した法令はないが、広く社会一般に受け入れられていると考えている”
794年平安京遷都から東京遷都されたと一般に考えられていますがそう簡単ではありません。
河合先生「遷都の詔を出すのですが、明治維新のときは出されていないのです」
佐藤所長「何となくなんてエライことじゃない」

■遷都騒動徹底調査!

京都左京区老舗の和菓子店「川ばた」
・川端知嘉子さん(店主代理)
御所と深いお付き合い、いったいどんな?
毎朝お餅を届けるという仕事をしていたのです。
350年近く毎日御所に届けていました。
御唐櫃(おからびつ)天皇の朝ごはんを入れる専用の容れ物です。
御朝物=お餅の周りを塩味の粒あんで覆ったもので、これを6つ御唐櫃に入れて毎朝届けていました。
「御定式御用品雛形」には、御所の儀式、作り方とか飾り方が絵図にした巻物です。
百把盛りとって千本チマキが描かれています。
御所の御用と言うかたちで様々な文化や技術が生まれ京都のブランドが保たれていました。
新政府から都を移そうという計画が出され、京都から猛反対の意見が出るのは必至です。
遷都はおろか、天皇から御所から出るというだけで大騒ぎになるのは目に見えています。
どうすれば京都の人を説得できるのか?

■明治新政府の秘策

賀茂別雷神社(上賀茂神社)
案内されたのは西側の回廊にあるサイズ感が違う、1864年に描かれた巨大な絵馬です。
長さ7m、150年の時を感じさせる風合いです。
絵馬の複製されたものが屋内にあります。
これは、文久三年(1863年)に孝明天皇が上賀茂神社に行幸されたときの絵です。
鳳輦(ほうれん)に天皇陛下が乗られ、237年ぶりの行幸と言われています。
行幸とは、天皇が外出すること。

■明治新政府の秘策“行幸”

明治政府は、この先例に目をつけました。
行幸なら反対する理由はありません。
まずは行幸として、地ならしとして東京行幸を実施します。
目的は東日本の人を救うためと
あくまでも行幸なのですぐに京都に返ってくることになっていました。
京都の人々は沿道で拍手をもって出迎えました。
第1関門クリアです。
もうひとつ大きな問題が残っていました、東京の人たちです。
4ヶ月前、東京では上野戦争で新政府軍と彰義隊のあいだで武力衝突していました。
円通寺に当時の様子を物語るものがありました。
寛永寺の彰義隊の鉄砲の穴が残っています。
天皇の行幸が果たして東京で歓迎されるのか、それが大問題だったのです。
1868年10月13日東京に到着した明治天皇御一行は江戸城に入ります。
・久住建夫さん(郷土史研究家)
お酒という文字が見えるのが気になります。
東京の市民にお酒を振る舞った様子が画かれています。
「御酒頂戴」というのぼり旗を作って町の名前を立てて行列しているのです。
「将軍家のお膝元、何か一つイベントをやるその仕掛けとして御酒頂戴が行われたのではないでしょうか」
12月明治天皇は京都還幸、大成功に終わりました。

■スタジオで
こちらを御覧ください。
2斗2升入の樽で、一升瓶を22本分に相当する量を3000樽振る舞ったといいます。
明治天皇から下賜された天酒は7樽でした。
3000樽に7樽を混ぜたものを再現してみます。
コップいっぱいの水をお酒だとします、スポイトで醤油200mlに対し0.4ml混ぜます。
これが天酒?になります。
味を試します。
佐藤所長「ちょっと醤油の香りがしますが、ありかも!」
河合先生「完全に醤油感があります」
なぜ、そこまでして明治政府は東京に都を移したかったのでしょうか?

■東京行幸に秘められた遷都の目的

名古屋の和菓子屋さんです。
・石黒鐘義さん(つくは祢屋店主)
熱田神宮の門前、創業240年。
東京行幸の様子を描いたという一枚の絵です。
明治天皇が熱田の八丁畷で稲刈りをご覧になった絵です。
御所奥深くにいて神秘的存在、しかし東京行幸のとき、行く先々で庶民の前に姿を見せられたのです。
庶民と触れ合ったというエピソードが各地に残っています。
大磯では地引網漁をご覧になり、天皇はそれを大変喜んだと言われています。
大久保利通は、「外国では君主が国中を歩き国民を撫育する」
フランツ・ヨーゼフ1世、ヴィクトリア女王、ナポレオン3世など。
欧米列強に対抗する国を作るには君主自ら国民の前に姿を表しまとめることが重要と考えました。
明治天皇からお菓子のご注文を頂き、褒美として農民にお菓子を配りました。
おまんじゅうの数3000余り、貴重なお砂糖を使っていました。
150年前のまんじゅうを再現しました。
菊の御紋の焼印が押された「御幸まんじゅう」です。
そして、明治天皇から褒美としてふくさと茶わんが下賜されました。

■大ブーム“行幸錦絵”

世間で話題となり錦絵が大ブームを起こしました。
愛媛県大洲市大洲城
大洲郷士館です。
明治天皇行幸を描いた錦絵「東京名勝呉服橋之図」がありました。
・赤松玲子さん(館主)
東京みやげとしても人気が高く、東京を訪れた人が買って帰りました。

■スタジオで
佐藤所長「京都にいたままではだめだったんでしょうか?」
河合先生「新しい改革がしずらく、反対者がいたら有力者に働きかけて何もできなかった」
「明治政府はヨーロッパ型の近代的な天皇にアピールしていこうということで京都では難しかった」
思わぬ事態が・・・

■いよいよ東京“遷都”へ

明治元年(1868年)12月、明治天皇は京都に還幸されました。
鈴鹿山会所(京都市中京区)
・新谷謙一郎さん
箱の中に箱があり、厳重に保管されています。
これは、菊の紋章が入った御土器(おんかわらけ)です。
明治天皇が東京行幸から帰ってきた時、各町内にひとつひとつ配ったものです。
天皇は京都の人たちを大切に思っている、明治政府はそんなメッセージを発して安心させたのです。
1869年2度めの東京行幸を発表、皇后と太政官も東京へ行くことに。
それを聞いた京都の人たちは騒ぎ出します。
石薬師御門
・井上満郎さん(京都市歴史資料館)
「皇后も行幸に行く。これはもう都が移る、京都が都でなくなる恐れを感じました」
千数百人が集まり皇后に東京に行かないでくれと嘆願します。
日に日に大きくなり、一触即発の状態に。
京都市歴史資料館にある「岩倉公実記」です。
明治政府の資料、岩倉具視の記録です。
「遷都をするかのようにおもっているものも少なからずいる。決して東京に遷鼎してこの都府を廃せられるることは万々これなきはずなり」
京都を決して見捨てることはありませんよ、遷都ではないことを説明し、事態の収拾を図ります。
遷都=古い都を捨てて新しい都に移ること
奠都(てんと)=新しく都を定めること

■遷都ではなく奠都
明治二年(1869年)3月28日明治天皇は東京城に入城します。
遷都なき東京が誕生したのです。

■天皇不在の京都のそれから

京都に残ることを決断した店もありました。
・「笹屋伊織」
行器(ほかい)という入れ物に入れて御所に届けていました。
ずらりと並んだ木型は、法要のための和菓子を作るための道具。
木型は寺社ごとに作られていてその数の分だけ寺社とのお付き合いがあるという証。
・田丸みゆきさん(笹屋伊織女将)
「お寺神社に守っていただいて今、商売を続けさせていただいております」
・お味噌屋さん「本田味噌本店」
御所へ入る時の通行手形などが残っています。
京都ならではの白味噌、西京みそといわれるようになったのは明治初期のことです。
・本田茂俊さん(本田味噌本店店主)
「水とか気候風土、それがあって良い商品が作れる」
「天皇はちょっと出かけてきます言うて行かはったんでしょいつ帰ってきはってもええようにしっかり留守番しています」

■スタジオで
佐藤所長「失ってはいけない矜持を保っているからこそ京都の魅力があると思いました」
「知らない言葉で煙に巻くのも含めて苦肉の知恵、必死に考えた」

ーーーおわりーーー

次回は「後鳥羽上皇と承久の乱」11月2日(水)放送です。

■感想

東京遷都の法令が無いなんて、驚きです。
御所が京都に残り、天皇のお住いだけが東京に移り皇居となった経緯がよくわかりました。
言い方は変ですが、今も仮住まいのママであるということ。
つまり、いつ京都に還幸されても問題ないということですね。
天皇の存在はすごい!ということの証明です。
やっぱり、京都御所に還幸されるのがいいと思いました。
そして、NHKスペシャルを見て、明治新政府には大きな影響を及ぼした欧米列強の陰が見え隠れするのが気になりました。
【感想】新・幕末史 グローバル・ヒストリー 「第2集 戊辰戦争 狙われた日本」
かなり強引な遷都には欧米の影響があったんでしょうか。
気になりだしました。

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