見出し画像

【感想】NHK 歴史探偵「関ケ原の敗者、逃げる!」を視聴しました

2024年11月6日(水)22:00~22:45 歴史探偵「関ケ原の敗者、逃げる!」を視聴しました。

<NHKのあらすじ>
石田三成の命日の夜、関ヶ原の戦いで敗れた武将たちの「逃亡劇」をお届け!
三成、小西行長、島津義弘の足跡を調査し、あなたの知らない「戦国の侍のリアル」を伝える。

■プロローグ

●スタジオで
関ヶ原の戦いで敗れた西軍武将のその後がテーマです。
東軍は徳川家康、西軍は石田三成、島津義弘、小西行長がいました。
この西軍の武将3人は戦場から逃げました。
佐藤所長「逃げてもいいの?」
資料プラス、言い伝え、伝承の力を借りて調査しました。

■石田三成はどうやって逃げた!?

●石田三成の陣の跡
・太田浩司さん(淡海歴史文化研究所)
左手に東軍、右手に西軍が陣をとっていました。
1600年9月15日、戦いは敗北へ、三成はどう動いたのか?
太田さん「本陣を離れ、近江の方へ逃げました」
近江は三成の故郷であり、領地として治めていました。
佐和山城は関ケ原から25キロの距離です。
「軍記物だと3人だけ連れて逃げたようです」
進路をなぜか北へと変更しますが佐和山城は逆の方角でした。
「豊臣を再興するという志がありました」
佐和山城はすぐに落城しました。
本拠・大坂城が南にあるのに、なぜ北に向ったのか?
「寛政重修諸家譜」三成は越前に向かうはずだ
越前は盟友・大谷吉継の地、港がありました。

●家臣との別れ
「改正三河後風土記」
少しでも人目につかないようにするため、3人の家臣と別れました。
3日後、伊吹山の西、谷口の集落にいたとされます。

●石田神社
・石田賢さん
「かくまったということで、石田の姓を賜ったのです」
ここには三成が泊まった家がありました。
鳩は八幡神の使いで、家紋も三成が与えてくれたと伝わります。

●オトチの洞穴に身を隠す
滋賀県長浜市古橋
・大山考一さん
「オロチがなまってオトチの洞穴と呼んでいます」
オトチとは大蛇の洞穴、崖を登ります。
歩くこと1時間以上、ようやく到着すると、大蛇の洞穴がありました。
ここに三成は隠れていました。
深さおよそ3メートル、8畳間ほどの空間が広がっている鍾乳洞です。
村人たちは、天然ニラなど食事の世話をしていたのです。
三成が支援してくれたおかげで、命の恩人で村の伝説として伝わりました。
村は三成にとっても特別な場所でした。
「お母さんの出身地で、地理もわかっていて、洞窟があることも知っていたのではないでしょうか」
三成は幼い頃、法華寺で修行していたといいます。
三成の母の墓も残されています。
しかし、徳川方に知られることになり、9月21日、関ヶ原の6日後、捕縛され、京都六条河原で斬首されました。

●スタジオで
佐藤所長「切羽詰まったりすると幼い頃過ごした場所に行くんですかね」
地元の方は、三成さんと、さん付けで呼んでいます。
11月6日が命日で、長浜市で石田三成祭が行われるなど、慕われています。

■小西行長はどう逃げた!?

●小西行長の陣跡
スマホの地図アプリで調べると、北に小西神社がありました。

●小西神社(岐阜県揖斐川町)
平家の落人伝説が残る集落です。
小西行長はキリシタン大名のはず、本当に行長にゆかりがあるのでしょうか?
・田中和彦さん(観音寺)
「この地で捕らわれたというきっかけで神社を建てました」
言い伝えでは、村人たちがかくまったといいます。
「もともと平家の落ち武者の歴史で、西軍として敗れた大将ということで匿う気になったのでしょう」
しかし、徳川方の追及が村に迫り、焼き払うという通達が来ました。
村人たちはやむを得ず行長を引き渡すことに。
しかも、農民は武器を持つことを禁じる、刀狩令が出されていました。
・平井上総さん(藤女子大学)
「かなり不徹底で根こそぎ全部持っていってしまうことに至っていませんでした」
戦場でいくらでも武器を手に入れることができました。
隠し持っていた武器で行長を捕らえることができました。
合戦の4日後、行長が連行されていくときのこと。
「自分はだまされた、この村を何度も焼き払うと言い残して行ったと言います」
「3度、4度、村が火事にあっていて小西行長の祟りだと伝わります」
祟りを収めるために神社が建てられたのでした。

●スタジオで
河合先生「農民は戦場にも駆り出されたので、力がありました」
「慶長見聞記」侍を軽しめ申事あるべからず
「まだ下剋上の世の中で、身分制度が固まっておらず、侍を軽く扱うな、という通達でした」
佐藤所長「まさに戦国の世ですね」

■島津義弘はどうやって逃げた!?

島津義弘は年齢66歳でした。

●どう動いたのか
・桐野作人さん(歴史作家)
1500人を戦場につれてきていた島津義弘。
敗戦が濃厚になったとき、徳川3万が迫っていました。
「東軍の武将は、恩賞を目当てに西軍の武将を追いかけだし、幸運にもエアーポケットができました」
島津は敵中突破です。
どうやって島津義弘を生かして返すのか、家臣はそれだけを考えました。
捨て奸(すてがまり)
トカゲの尻尾切りのような戦法でした。
時間稼ぎをする間に本体を逃げ切らせるのです。
しかし、目指すは遠方の薩摩です、脱出したのが午後2時頃、東へ走り抜き、駒野峠へ。

●駒野峠
桐野さん「馬を1頭つぶして食べたのでした」
大阪湾までの船にのって帰ろうとします。
・土山
ここから向こうに行くと西の方角に大津や京都、ところが引き返すことになりました。
大津あたりまで東軍がひしめいていると知り、街道にでるのを諦めます。
66歳の義弘には山道は身にこたえました。

●信楽
ここで一戦やっています。
思わぬ敵、武装した僧侶・法師武者に襲われます。
そして、ここでもまた、武装した農民たちが火縄銃で襲ってきました。
義弘の首には金子100枚の賞金がかかっていたのです。
なんとか堺の港につきます、関ケ原の戦いから5日後のことです。

●堺
一行は1500人が80人くらいになっていました。
大坂にいた妻とも合流、4艘ほどの船に分乗し、薩摩へ逃げます。
ところが、難関が待ち受けていました。
3艘が取り残され、見知らぬ船団が現れます、黒田官兵衛の水軍でした。
「水軍は昔の三島・村上水軍の人たちでした」
一部が黒田家に仕えていました。
3艘そのうちの1艘に夫人が乗っていました。
2艘を綱で結び、黒田水軍に立ち向かったのです。
矢と銃を武器に黒田水軍と互角に戦いますが思わぬ攻撃、焙烙玉を受けます。
「村上水軍は焙烙玉を得意にしていて、それらを島津に投げ込みます」
「黒田家譜」黒田家に記録が残っています。
10時間にも及んだ激闘、島津の船は2艘とも海に沈みました。
「義弘自身は海戦を宮崎県の北の方で知ったのではないかと言われています」
宮崎から陸路で鹿児島へ、霧島に着いたのは10月3日のことでした。
義弘と残ったのはわずか39人だったと記録されています。

●スタジオで
佐藤所長「家来たちの功績、義弘は一生忘れることができないでしょう」
河合先生「徳川から出頭要請が出ますが、2年間のらりくらり交渉し続け応じませんでした」
「最後は島津家が頭を下げれば許すと譲歩しました」
「東軍の武将たち、福島正則や井伊直政にも島津に心を寄せるものがいました」
西郷隆盛と並ぶくらいの英雄です。
「関ヶ原戦跡踏破隊」鹿児島の子どもたちが関ヶ原にやってきて行うイベントです。
河合先生「戦国大名にとって、負けたら逃げるというのは恥ではありませんでした。信長も家康も何回も再チャレンジしています」
「腹を切るというのは江戸時代になってからのものです」

ーーーおわりーーー

次回は「明治維新 新政府の挑戦」11月13日(水)22時放送です。

■感想

関ヶ原の戦いで敗れ逃げたことは知っていたけど、詳しく教えてくれました。
石田三成の逃亡劇の話は、公式見解とは違うようで、初めて聞く話で、面白かったですね。
石田神社まであるとは、知りませんでした。
石田三成を悼んで建てられたとのことです。
地元の人に慕われたのでしょう。
一方、小西行長はキリスト教を信仰する人物で、村人を恨んだ。
縁がなかった地域だとはいえ、小西行長という人物の考え方が現れているのがわかりました。
三成のように慕われたのではなく、祟を鎮めるために建てられたという違いがあったのですね。
神社伝承というのは歴史が残っていて面白いですし、軽んじてはいけないようです。
島津義弘については、逃亡成功していなければ明治は無かったかもと考えると、これもすごい逃亡劇だったと感心しました。


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集