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【感想】NHK 歴史探偵「家康 幻の江戸城」を視聴しました

2024年10月30日(水)22:00~22:45 歴史探偵「家康 幻の江戸城」を視聴しました。

<NHKのあらすじ>
徳川家康が築きわずか十数年で姿を消した「幻の江戸城」。
謎に包まれていた実像が最新研究から明らかに!
CG復元から見えてきたのは戦国の集大成ともいえる究極の城の姿。


■プロローグ

●スタジオで

佐藤所長「お堀端、よく通ります」
・江戸城年表
1457年 太田道灌が築城 その後北条氏の城になる
1590年 徳川家康が入城
1603年 大規模な改修が始まる
1607年 家康の天守完成

皇居の東御苑に当たる所、ある時期だけ幻の江戸城が存在したのです。
家康オリジナルの江戸城のことで、十数年で建て替えられ姿を消してしまいました。

■幻の江戸城とは

●東京千代田区
・相場峻さん(千代田区)
「ほとんど残っていなくて、リメイクしてきて家康以来の姿はないのです」
他の手がかりはないのでしょうか?
松江の方で発見された絵があります。

●松江歴史館(島根県)
・新庄正典さん
「極秘諸国城図」は、松平家に伝わる74枚の城の平面図です。
お目当ての1枚、家康が築いた江戸城といわれる「江戸始図」です。
大名の名前に羽柴姓を名乗るものがあることから、江戸初期の城を描いたと考えられるのです。
この資料の重要性に気づいた人がいます。
・千田嘉博さん(城郭考古学者)
真田丸城郭考証を担当していた千田さん松江を訪れる際見つけたのが江戸始図でした。
「本当に衝撃で、慶長の江戸城はよくわからなかったのが目の前に現れ驚きました」

●3つのポイント
①3連続馬出し
馬出しを3つ重ねている「3連続馬出し」城の出入り口に儲けられた構造物のこと。
2方向から攻撃でき、十字砲火できました。
味方の援護射撃も可能で、城を格段に強化できます。
②外枡形
攻撃力の強い出入口を重ねて本丸に到達するようにしています。
すぐれた防御施設でした。
江戸始図を見ると複雑な外枡形が5つ
③連立式天守
大天守に複雑な連立式天守の形を取っていました。
家康の江戸城の強さとは?

●家康の江戸城をCG復元
・3連続馬出し
一つの馬出しに兵が入り込んでももう一つの馬出しや、両側から挟み撃ちにすることも可能です。
何倍も強い城にできました。
・5連続外枡形
一つを突破しても、外枡形が待ち構えていて簡単には本丸に到達することはできません。
・連立式天守
本丸にも攻め込まれると一斉に敵を攻撃することができます。
千田さん「1つの独立した要塞とした連立式天守、究極の天守を家康は作り出しました」

●スタジオで
佐藤所長「太平の城というイメージでしたが、戦闘的な機能を備えていたんですね」
千田さん「秀頼が健在で、大名たちがまだまだいて、万が一の事を考えて勝つ城を作り上げたのです」
城づくりについて新たな一面が見えてきました。
千田さん「ケチで下手だったというイメージだったのが、名築城家ということがわかりました」
どうやって築城名人になったのか?

■名築城家の家康

●若き日の家康が関わった小山城(静岡吉田町)
・松澤紘一郎さん(吉田町)
家康の江戸城の馬出しが小山城にもあります。
ここは実は武田の城、武田信玄はこうした城造りが得意で馬出しを供えた城を数多く築きました。
どのような関わりがあるのでしょうか?

●武田信玄の馬出しとの関係
1575年、長篠の戦いで勝利した家康は小山城を激しく攻め立てます。
松澤さん「何回か攻めますがおとすことができませんでした」
家康はある行動を起こします。

●岡崎城
・千田嘉博さん
「橋を渡った向こう側が広場になっています、これがすごいんです」
ここ持仏堂曲輪は、馬出しの作りになっていて家康のつくった馬出しでした。
小山城の馬出しと共通点があります。
千田さん「家康は武田がなぜ強いのか分析し、自分の城に使うように取り入れたのです」
更に家康オリジナルの工夫を施しました。
もう1つの馬出し、ダブル馬出しになっていました。
さらに進化した馬出しになっていました。
江戸城の3連続馬出しはこれを参考に作ったのでした。

●信長の城づくりのスキルを吸収
味方の織田信長からも城造りを学びました。
安土城に家康が学んだという遺構があります。
天主へ向かう通路はある特徴的な構造が見えてきました。
迷路のように曲がっていて、何度も折れ曲がる複雑な作りになっています。
外枡形が3つ連続して作られていました。
「信長公記」完成して間もない安土城に招かれています。
その際、連続する外枡形を通ったと見られます。
武田から学んだ3連続の馬出し、信長から学び5連続の外枡形、敵と味方の長所を取り入れたハイブリッド型の城でした。

●スタジオで
千田嘉博先生「家康は稀に見る聞く力を持っていた武将でした」
「信長は武田の外枡形を取り入れていません。家康は相手の強さを自分の物にできることで成長した武将でした」
佐藤所長「連立式天守はどこから学んだのか?」
千田さん「信長・秀吉の反面教師で作られたと見られます」
「戦う時の実用の道具であるべきだということで連立式天守を作ったのではないでしょうか」

■駿府城(静岡市)

家康はどのような天守を築いたのか?
・松下高之さん(静岡市)
再現した模型を見ると、なんと天守が櫓で取り囲まれた不思議な形をしています。

どうして家康は天守を守り抜くことに固執したのか?
千田さん「最後まで戦い抜く、次のチャンスをつかむためにつくったのではないか」

さて、強かった部分は家康が亡くなってすぐに取り壊されてしまいます。
家康の天守は15年しか存在していません。
その手がかりは名古屋城にありました。

■なぜ短期間で姿を消したのか?

●名古屋城幻の小天守
階段を降りたところは堀です。
2021年、発掘調査で、石垣の基礎の石が見つかりました。
幻の小天守の石垣の基礎です。
1610年、名古屋城の築城が開始されました。
当初、小天守が建つ予定でした。
最強の城になったはずですが、途中で止めてしまいます。
千田さん「まだ幕府は戦いに備えているのかというまちがった意識を持ってしまう」
平和で安定した世の中を家康は見据えていました。
家康は名古屋城の強化をあえて取りやめるという一大パフォーマンスを行ったのです。
戦を行わない政策を次々に打ち出します。
・一国一城令
・武家諸法度で城の新築を禁止、修理も制限しました。
1616年家康死去
平和な城づくりは秀忠、家光に引き継がれます。
馬出し、外枡形、連立式天守はことごとく取り壊され新たな城へと生まれ変わったのです。

●スタジオで
江戸城はどう生まれ変わったのか?
「今江戸図」1650年~70年の江戸城
3つのポイントが無くなり、そこに本丸御殿が建てられるのです
千田さん「政治や大名の対面行事、中奥、大奥など、大御殿が作られていきました」
佐藤所長「負けた信玄から学び、信長・秀吉から反面教師として学ぶという、人から学ぶことに長けていたのですね」

ーーーおわりーーー

次回は「関ケ原の敗者、逃げる!」11月6日(水)22時放送です。

■感想

お城研究でおなじみ千田先生が登場するなど城好きにはたまらないテーマでした。
もしも現在、江戸城が残っていたらと思うと残念ですね。
天皇陵と同じで皇居では研究も簡単には出来ませんから。
原型は、1457年に麹町台地の東端に扇谷上杉家の家臣太田道灌が築いた平山城だとか。
平城なので、海を防御壁とした点は大阪城ともつながります。
当時は海や川に囲まれた高台にあったのでしょう、防御は完璧でした。
平和な時代になって番組にあったように変化し、無血開城があって明治維新で取り壊されたのでした。
このように歴史のエッセンスが凝縮された江戸城、実物を見てみたかったですね。


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