第39回「イタリア縦断記 その7」目指せニューシネマパラダイス
「待ってろよ、トルナトーレ様!」
なんだか、カラダが火照っている。「ブォン。ジョールノ」とアパートの住人にいつもの挨拶をしながら感じたのは、喉の奥から湧き出る声質が変わっている?ということだった。昨日のたった一日でナポリ王国五百年、ポンペイ遺跡二千年以上の「熱」を脳が集め、からだに宿ったといったら大げさだろうか。
マンマの朝食を屋外テラスでゆっくり食べる。この十階くらいから眺めるナポリのまちが、今の僕にはちょうど良い距離感だった。クールダウンし切らずにざわつきを落ち着かせる時間。色とりどりのフルーツをよそっていると、少し離れたところから息子たちの駆けずり回る声が聴こえる。子供たちの適応能力は早い。一週間もいれば多分、立派なナポリッ子になっているだろうと思う。
今日はソレントとサレルモを巡り、夕方の船でシチリアへ渡る予定だ。「シチリア、あぁ夢にまで観たシチリア島」へあと一歩ということが急に現実味を帯びてきて、この高台から吠えたい衝動にかられた。
シチリア、それはヒロキにとって「ニューシネマ・パラダイス、映画という道」の原点だ。そしてもちろん、今もまだその道をトボトボと歩き続けている途中だった。
「日奈子、大いに謡う」
さて、ゆっくりする間もなく旅は自動的に再開する。まずは僕らの愛車FIATを取りにいこう。とアパートから結構離れていたと思われた駐車場は、思いの外近かった。
「君たちはどこから来たんだい?」「ヴェネツィアからです」などと駐車場のおじさん達と四方山話をしていると二日目にしてすぐ親しくなれた。そういう感じは沖縄の人とも近い感じ。イタリア人は全般的に人懐っこいんだけれども、南へいけばいくほどその傾向は増していくようだ。もうしばらくこのまちに滞在したい、そういう気持ちを跳ねのけて旅人はいつだって出発していく宿命にあるのだと思う。
そして向かうはソレントだ。そこは南イタリアを代表するリゾート地である。ソレントという地名を聞くと、今まで友人に様々な場面で問われたことが頭に甦る。
「ヒロキはバカンツァはどうするんだい?」
バカンツァ、それは魔法の言葉といってもいい。
全てのイタリア人がこのバカンツァ(長期の休暇)を軸に暮らしているかもしれない。
夏も近くなると決まってその長期休暇の過ごし方、その情報交換の渦に飲み込まれる。
その時の日本人の感覚としてはせいぜい「GWはどうしてた?」とか、「お盆には帰省するのかい」くらいのものしか持ち合わせていないから、それをじっくり問われると戸惑うだろう。そもそも年に数回長期でどこかで滞在するとか、学生でもない限り「家族とずうっと一緒にゆっくり過ごす」なんて時間を持たないまま生き続けることの方が多いはずだからだ。
そこで、決まって出てくるのが南イタリアの話。ソレントを始めとする周辺リゾート地の人気は極めて高い。多くのヨーロッパの人たちが南下してイタリアへ訪れるのに連動して、イタリア人たちも更に南へぐぐっと大移動するようなのだ。
「南イタリアはね、とにかく素晴らしい。ブラビッシモ!」、
「ヒロキ、君には美しい海と美味しい料理が待っている」
「本当にベリッツシモなんだ!」と連呼されるこの地方。
そうだ、僕らはそのベリッシモを観にいくんだ!と心軽やかに車をスタートさせた訳なのだが……。
開始早々、ナポリですぐに渋滞。ソレントを目指す道路もかなり混んでいるようだった。ヒロキが困ったなとシートに頭をもたれていると、何やらイタリア語が後ろから聴こえてくるではないか。しかもそのメロディは、あの「帰れソレントへ」のようだった。
思わず、後ろに首を傾けて、
「えっ、歌えるの?しかもイタリア語?」
と聞くと、日奈子はにんまりしたり顔で、
「高校の音楽の授業で覚えさせられたの。意外と今でも歌えるもんだねー」
と嬉しそうだった。歌詞は分からなかったが、僕も音楽室のレコードで聞かされた覚えがある。曲が持つその独特な寂しいような、それでいて誇らしげなような不思議な曲調は強烈に頭に残っていた。
「ゆっくりとさ、もう一度歌ってよ」
とお願いすると急に恥ずかしくなったのか日奈子は顔を赤らめて
「ちょっと待ってよ~ふう」と深呼吸をして小声で歌い直してくれた。
高校生の時には全く分からなかったこの歌の意味が、今ではなんとなく感じることが出来る。イタリア語が身についたからなのか、愛するということが少し分かるようになったからなのか…。いずれにせよ、愛の歌を声高らかに歌い上げるということ、それが決して恥ずかしいことではないということが感じられて嬉しくなった。
それからナビの指示に従って車を進めて約一時間半あまり。何やらずどーんと開けた高台に着いたので、車を降りることにした。
うわぁぁぁ!
こ、これか!
あっちに見える海岸線が、
あのソレントなのか!
僕らは顔を見合わせて目を見開いてしばらく眺めていた。
「よし、日奈子準備はいいか?」
「えっ、本気なの?」
「もちろん本気さ。こういうのは本気でやらないと意味がないからな」
ヒロキは有無を言わせぬ監督モードで力強く答えながら、
カメラの準備を始めた。
「え~~っ、ほんとに?」
キャー嫌だよ~恥ずかしいよ~とかなんとかまだ言っている日奈子の声は聞こえないふりをして。いざファンインダーを覗き込む。
うんっ!ばっちりだ。
日奈子そこ立ってみて!
おおぉ、フォトジェニックだよ。
そ、そぉお?
じゃあカメラをまわすよー。
まわし始めて、彼女はすぐに歌い始めることが出来ないようだった。何度か深呼吸をして、ちょっと歌っては止めた。その間、僕は特に何も言わずに黙って待つ。額にじっと汗が滲み始めたころ、日奈子は静かに舞台に立った。
「トラック クワトロー(テイク4)!」
僕の合図に決意を固め、日奈子は歌い始めた。
ソレントの大きな背景を背に、恋の慕情を歌い上げる。
そう「帰れソレント」をイタリア語で、
現地で、想いを届けた。
一番の終わりで歌が止まる。
少し間をあけて、僕も大きく息を吸い込んで叫ぶ。
はいカットーーーーっ!
オーケー!
クラもカンジローもそれに続く。
はぁいカットーーーーーー!
オッケーーーママ!
そこからしばらく下るように道を降りていく。気づけばそこが、ソレントのまちだった。解放的なまさにリゾート感あふれる原色のまちが僕らを迎えてくれた。
何かひと仕事終えた満足感と共に、お腹がすいたーという生理的欲求が湧き上がってきた。
(続く)