見出し画像

二十二回 「僕は本で出来ている」

1994年 2月 草加

〇 運ばれた荷物の殆どは本だった。

こうしてみるとよく分かる。僕という人間は本で出来ているという訳だ。他の荷物はといえば、大モノはセミダブルのベッドと本棚、そして小学から使っている学習机のみ。あとは洋服が少々というぐあい。別にベッドも机も実家に置いてきても良かったのだけれど、あれだけのタンカを切って出てきた以上、部屋を空っぽした方がいいように思えて、敢えて運んできたのだ。

本棚に入りきらない本たちは、開封したダンポールから物珍しそうに顔を覗かせている。ざっと千冊はあるだろう。この古いアパートの床が抜けないか気にはなった。

台所用品はまだ揃ってはいない。あるのはコーヒー用のチェック柄のついた大きなマグカップとやかん、そして包丁一本のみ。この時期になると三年生は実家に戻る人も多いし、四年生は新天地に引っ越したりするから生活に必要なものはその時々にもらえばいいはずだ。


僕はやかんに火をかけ、近くで買ってきたインスタントのコーヒーの粉をカップに入れた。シュッ、シュッシュと威勢よくお湯が沸き立ってくるのが分かる。部屋の湿度を上げるためにしばらくは火にかけておく。

六畳と四畳半がつながっている二階の角部屋。南向きに三面の大きな窓と、東側にも一面に同様な窓があるからとても明るい。二月末だというのに日中は暖房要らずなのが心地良い。斜め下の伊藤さんの部屋より五千円高い家賃の分だけの価値はあるだろうと思う。

流しに寄り掛かったままコーヒーをすする。なんだか妙に美味しく感じた。少し奮発してゴールドブレンドにしたのが正解だったかもしれない。「違いが分かる男」にはまだ程遠いかとは思うが、僕の独り暮らしの始まりとしては十分リッチな買い物だと思う。これからは少し節約していかなければいけない。バイトも殆ど辞めてしまったし、貯金は三百万ほどあるけれど、これからは何かと要り様なはずだった。自分の暮らしをつくっていかなければならないからだが、逆にそのことは僕にチカラを与えてくれていた。

自分の年齢と同じこのアパート。名前は「武井荘」といった。八部屋あるうちの右上の端、その一番上等な部屋が僕の城だ。

この城を勝ち獲るためのひと月あまり。それはまさに戦いだった。父との戦と言ってもいいだろう。しかし、その度に病気の母を何度も泣かし、苦労をかけたことを思うと胸が痛い。母は随分と前から僕の計画を知っていたようで、こころよくは思わないものの、辛抱強く父に説得をしてくれていた。毎日少しずつ、機嫌がいい時に、外堀を埋めていくように…。


〇ひと月前の出来事 父との確執

強烈な個性と破壊力を持つ父は、理不尽というタイプではなく、「徹底した正義と正論の剣」を持つ人だった。父の言うことは、どこまでいっても正しい。

「家から通える距離なのに、独り暮らしをする意味は何なんだ!」

「……」

「お前は語学をやるって言ってたから大学に通わせているのに、バイトばかりして遊んでばかりじゃないか」

「……、映画をつくってるから仕方ないんです」

「映画?お前は医者になるって言ってたのも勝手に諦めて、今度は語学もやめるのか?」

「それとこれとは関係ないでしょ!」

そこを突かれるのは不本意だった。

「はあ?」

「別に、やめるとは言ってませんし…」

「じゃあ、なんなんだ」

「映画、やってみたいだけです!」

「ん?それこそ独り暮らしとは関係ないだろー。お母さんの病気を治すって言うから言うことを聞いてやっていれば全く…」

「……」

「それと映画がやりたいなら、大学をちゃんと出て、ちゃんとした仕事に就いてからやればいい」

「それじゃあ、無理なんです」

「無理ってなんだ!」

「今やりたいんです、今が大事なんです…」

「そんなの関係ない。家から通えるだろ。少しは家の手伝いくらいしろ。遊んでばっかで、一体いくら学費もかかってると思ってるんだ」

「……」

「やるって言ったら最後までやれ。結果が全てなんだよ。だいたいお前は努力が足らない」

「自分なりに頑張ってますけど…」

「ん!あのな、頑張るってのはみんな頑張ってるんだ。本当に頑張るっていうのは「がんばって、がんばって、がんばる」それで初めて頑張ったって言えるんだ。お父さんはそれで出来なかったことはないし、お前みたく負け犬みたいなことは一度だって言ったことはない!」

「お父さんは、いつだって正しいでしょうよ」

「ん⁉」

やばい、やばい、言い過ぎだ。これ以上言えば大ゲンカになるし、またお母さんが苦しむことになる。それは分かってたけれど、もう止められなかった。

「お父さん、世の中は正しさだけじゃない」

「なんだと!」

「お父さんの正しさは、人を殺しますよ」

「!!!」

「だってそうでしょう。お母さんを病気にさせたのはお父さんのその厳しさ、正しさかもしれない。家族もみんな我慢してきたんだ。だから…」

もう、どうにでもなれと思った。

なんだとー!と掴みかかってくる父を、母が泣きながら制し、静かにそして厳しく僕に言う。

「弘樹!お父さんに謝りなさい!」

僕は俯いたまま動けなかった。

「お父さん、わたしが悪いんです全て。でも、弘樹にもやりたいことやらせてあげたらどう?弘樹もここまでずっと耐えてきたし、お父さんが頑張ってないっていうけれど、私は頑張ってきたと思う。子供は親の奴隷じゃないでしょ。子供は社会の子だって私たちずっと言ってきたじゃない。だから、そろそろ弘樹を自由にさせてあげてもいいんじゃない?」


僕に対して父が怒鳴ることは、姉に対してそれをする何十分の一の確率だったはずだ。たぶん、父と姉は近しい存在だったから、怒りやすかったんだろうと思う。それくらい姉はよく父に怒られていた。怒鳴られて、手を挙げられても蹴られてそれに反航しても、喧嘩が終われば仲良くなっているように僕には見えた。(姉に言えば、そんな訳ないじゃないと逆上されそうだから言わないけれど……)

小さい頃から僕は怒られないように立ち回ってきたし、大人が何を考えているのか、小さい頃から察するのが得意だった。そう自分でも自覚して先回りして行動してきた。でも、それは僕の勝手な思い上がりなのかもしれないなと今では思う。


「だめだ。家があるんだからここから通いなさい。まだ、おまえは半人前なんだから。好きなことやるなら、一人前になってからにしろ。そうすれば卒業までは学費も交通費も必要なものは面倒みてやる」

高校三年の時にアメリカの大学に行くといった時のことを考えれば冷静な物言いだった。

「別に、出してもらわなくてもいいです」

「なに?」

「学費です、学費くらい自分で払えます」

言ってしまった。でも、今回はどうしても引き下がれなかった。

「!!じゃあ、自分で払え。お父さんは一銭も出さないし、何も責任は取らない!映画なんかじゃなく、ちゃんとしたことをやれるような一人前になってからモノは言え」

僕は黙るしかなかった。これ以上は言っても無駄だったし、自分の言い分も破綻していること位は分かっていた。そしてお母さんをこれ以上苦しめたくなかった。

それからのことはよく覚えていない。僕は二階の部屋に駆け込んでだんまりを決め込んだし、父も追いかけては来なかったからだ。遠くから母のすすり泣く声が聞こえてはいたが、もう何も聞きたくなかった。

僕はウオークマンで耳を塞ぎ、本を読みながらベッドに寝そべっていた。音楽のメロディも、本の内容もどうでも良かったんだけれど、活字を読むと僕は少しだけ落ち着くことが出来た。

気づくと、顔に本がかぶさっていて目が覚めた。いつのまにか眠ってしまったようだった。

足音を立てずにそっと台所に降りていくと、テーブルの上には黄色い紙がある。母からの手紙なのは見なくても分かった。いつも母は直接言ってもダメな時に、手紙を使って語りかけてきたからだ。

新聞折り込みチラシの裏にペンで書かれた母の文字。もう何百回と見てきたこの文字、母の書体。いままで何度やりとりをしてきただろう。面倒くさいなと思うこともあったし、それによって冷静になることも出来た。救われてきた。そういうこともこれからはなくなるのかと思うと、急に寂しく感じられた。


『弘樹、お母さんはあなたを信じています。やりたいことがあるならやればいい。人生は一回きりだもの。お父さんもお母さんもずっと必死に生きてきたからやりたいことが、やれないでここまできました。

 だからお父さんの気持ちもよく分かるの。そして弘樹の気持ちもね、良く分かるのよ。でも、やるんだったら本気でやってね。お母さんは応援しています。後のことはお母さんにまかせておけば大丈夫だから。何も心配しないで、弘樹は前に向かって進んでいきなさい。

ただ、お父さんにはちゃんと謝ること!感謝の気持ちを忘れちゃあだめよ。

お母さんより』


翌朝、僕は父が役所に出かける直前を狙って謝った。「お父さん、昨日はすいませんでした」以上。車で迎えに来ている部下もいたので、特に話さずに済ませられた。僕はどうも父の前では素直にはなれなかった。何を話したらいいのかも全く分からなかった。

そしてその三日後に、僕は家を出た。

事前に何度か姉の車で運べる荷物は運んでいたから、借りた軽トラ一回での簡単な引っ越しだった。軽トラは、母方の大工をしている日高の叔父さんから借りた。

引っ越しの日。荷物を運び込んだら、暗くなってしまった。もともとついていた裸電球がひとつ。僕は薄暗い中で軽く整理をすませ、そのままベッドに潜り込んだ。お腹はすいていたが、なんだか疲れてしまっていたのだ。

部屋で横になってみて感じたのは、とても静かだということだった。ここには喧嘩をする姉もいないし、ご飯を作ってくれる母もいなかった。寂しくもあるけれど、産まれて初めて自由になれた気がしてこそばゆい感じがした。


明日は朝からR女史がやってくる。

掃除道具を持ってやってくる。

リサイクルショップに行く約束もしているから、多分また騒々しくなるだろう。

だから今は何もせずに目を閉じていよう。やっと自分だけの城を持てたのだから、今を、好きに生きていいのだ。

そして、眠ってしまおう。そう弘樹は思った。

(次回へ続く)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?