国民栄養調査のデータが、終戦直後の日本の食糧危機を救った
日本が戦争に負けた1945年は、記録的な冷害に見舞われました。
空襲で工場の生産は止まって、肥料は不足していました。
農家の男と農耕馬は、戦場に出征したままで、収穫もできませんでした。
重光葵外務大臣は、引き揚げがかなわぬ海外の日本人同胞に向かって、本年度の米作は六〇年来の大凶作で、引き揚げ者を受け入れる余裕がないという文書を発出しました。
これを読んだ作詞家のなかにし礼氏は、祖国に見捨てられたと感じました。
日本を占領したGHQは、こうした日本国内の食料不足には冷淡で、経済政策にも介入しない方針でした。
これまでアジアの人たちの食糧を搾取してきた日本に対し、それらの国を差し置いて食糧を提供することはできない、というのが米国民の正直な気持ちでした。
こうした本国の意向を反映して、GHQは、日本を周辺のアジア諸国よりも豊かにはさせないと決めていたのです。
敗戦国ドイツは、第一次世界大戦後の食糧不足の経験があり、都市部では食糧不足に備えて、各家庭で備蓄をしていたことから、餓死者が出ることはありませんでした。
日本は、これまで一度も戦争に負けたことがなく、そのような備えをした家は皆無でした。
ドイツと同じカロリーで食糧政策を続けると、マッカーサーの足下の首都東京で、相当数の餓死者が出る可能性がありました。
占領した日本の統治を成功に導いて、次の大統領選挙に出るという野望を持ったマッカーサー元帥の経歴に傷が付くかもしれない。
GHQの福祉保健局長のサムス軍医大佐は、食糧不足による政治上のリスクを察知しました。
サムスは、日本人の平均的なエネルギー摂取量を産出し、客観的なデータを示して米国にいる担当者たちを説得する作戦を立てました。
厚生省の医系技官の大磯俊雄は栄養の専門家で、GHQの栄養部長のハウ大佐とは、専門家同士で馬が合いました。
大磯らに企画させて実施した栄養調査の客観的データを、米国の担当者に送りました。
その結果、米国内に住む日系人らが組織するアジア救済連盟(LARA)が物資を集めて、日本に支援物資を送ることが決定します。
小麦や脱脂粉乳を中心としたいわゆる「ララ物資」が日本の横浜港に届きました。
このときのことを皇后陛下は、歌にしています。
ララの品つまれたる見て
とつ国のあつき心に
涙こぼしつ
あたたかきとつ国の心つくし
ゆめなわすれそ
時はへぬとも
サムスは、ララ物資などを使って学校給食を開始させました。
一番の社会的弱者である子供たちを最優先にして、学校から栄養状態を改善したのです。
まさに子どもファースト。
学校版の子ども食堂でしょう。
サムスの担当は厚生省であり、文部省は担当外だったのですが、学校の関係者は皆サムスを頼りにしました。
大磯らが行った栄養調査は、現在は国民健康栄養調査として、現在も続けられています。
大磯は、ハウ大佐と共同し、日本の戦後の栄養政策を展開しました。
ハウ大佐は、日本人の栄養源としては大豆タンパク以外はないと、統制を廃して500トンの大豆の輸入を手配します。
これで、壊滅状態にあった日本の納豆業界が立ち直りました。
大磯は、後に厚生省の栄養課長を経て、国立栄養研究所長になっています。
カップヌードルの生みの親の日清食品の安藤百福氏が、即席麺を開発する際に強力な支援をしています。
国民の栄養は健康の基本、国の一番の大事です。