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人を評価する際に、予断はよくない

1891(明治24)年10月28日に、濃尾地震が起きました。

このとき陸軍の第三師団長の桂太郎は、名古屋におりました。

愛知県知事からの要請を待たずに、独断で兵を動かして、救助、治安維持、復旧活動を行わせました。

「天皇の軍隊」を勝手に動かしたことから、桂師団長は辞表を提出しました。

しかし、逆に、明治天皇から、お褒めの言葉をいただきました。

桂は、保身よりも人命を優先しました。

地震で軍隊を動かすという先例はありませんでしたが、自分の判断で行い、周囲もまたそれを評価したのです。

被災地の住民から感謝され、後に市町村と県の首長から感謝状が贈られています。

これ以後、災害時の軍隊出動は恒例となりました。

桂太郎は、軍人には珍しく、現在の厚労省的な労働者保護や医療にも関心を持っていました。

総理大臣となった桂は、労働者を保護する工場法を制定したり、貧民に対して医療を行って救済をする済生会活動も行っています。

これらは、現在の労働基準法と済生会病院になっています。

工場法に反対していた財界の渋沢栄一を説得したのは、桂太郎総理大臣です。

自分が死亡した後の献体を申し出て、実際に東京大学医学部で解剖が行われました。

いつもニコニコしており、ポンと肩を叩いて、仕事を振ることから、「ニコポン」とあだ名されていました。

日露戦争を戦ったときの総理大臣は、ニコポン総理でした。

三度も総理大臣をやり、安倍元総理に破られるまでは、総理大臣の任期が史上最長でした。

長州出身の軍人総理ということで、あまり好きではありませんでしたが、軍の災害派遣を独断で決めたり、工場法を制定したり、済生会病院をつくったり、献体をしたという功績を知って、私の中の好感度がアップしました。

人を評価する際に、予断はよくないと思いました。

寺内正毅という長州出身で総理大臣になった軍人がいます。

司馬遼太郎さんが、「坂の上の雲」で、長州出身だから大臣になれたと酷評しており、嫌いな人物でした。

しかし防衛省に勤務して、「彰古館」という旧陸軍の医学博物館を視察したあとから、好きになりました。

寺内正毅は、西南戦争のときの田原坂の戦いで、右腕を撃たれました。

大阪に設置された陸軍臨時病院に船で後送されます。

田原坂の戦いの負傷兵の絵

陸軍軍事病院の病院長は、順天堂の外科医の佐藤進でした。
現在の順天堂大学医学部の三代目の堂主です。

明治の初めにドイツに留学生として派遣され、ベルリン大学の外科で医学博士をとりました。

ウィーン大学にいた世界的な外科医ビルロートの下で腕を磨いて帰国します。

ビルロートは、消化器外科のパイオニアです。

胃がんの手術方式には、今もビルロートの名前が付いています。

ビルロートは音楽家になるか、医者になるか迷ったほどの音楽への造詣が深かったと言われており、音楽を流して手術を行いました。

テレビドラマで、音楽を流しながら、神の手を持つ外科医が手術をするシーンが出てきます。

これは、ビルロートがモデルです。

日本の「神の手」の外科医第一号の佐藤進は、西南戦争が始まると、大阪臨時病院に迎えられ、手術をしまくりました。

田原坂

病院に、寺内正毅大尉と阿武時介中尉が運ばれてきました。

長州藩出身の二人は、将官になれるほど前途有望な将校でした。

どちらも、腕に銃弾を受けており、骨折していました。

カルテの置かれた順番で、佐藤院長は、阿武中尉を先に手術を行いました。

銃弾を受けた腕は切断しました。

次は、寺内大尉の番でした。

佐藤院長は、今度は切断をせずに、骨片を取り出す新しい保存的な治療を試してみることにしました。

寺内大尉は、痛みに苦しみます。

手術を受けた箇所からは何度も膿が出て、その都度切開をしました。

寺内大尉は、たまりかねて阿武中尉のように腕を切り落としてくれと叫びます。

佐藤院長は、必死になだめて説得をしました。

一方、腕を切断した阿武中尉は、順調に回復し、早期に退院となりました。

半年後に退院した寺内大尉は、現役に復帰しました。

腕の無くなった阿武中尉は、予備役となり退職します。

寺内は、右腕は効きませんでしたが、軍政面で力を発揮し、フランス留学を果たして、出世街道に乗ります。

陸軍大臣を経て、総理大臣まで上り詰めました。

一方の阿武は、軍関連の福利厚生施設の事務員として働き続けました。

後年、大臣となった寺内と再会します。

カルテの置かれた順番で、手術の方法が変わり、その後の二人の人生が変わりました。

このことを題材にした、渡辺淳一さんの直木賞受賞作「光と影」はおすすめです。

田原坂の馬上豊かな美少年の像

寺内は自分が負傷したことで、衛生や医療については関心を大いに持っています。

陸軍内の脚気が減らないので、陸軍の衛生の米食支給の方針に反して麦飯を支給して予防をしました。

陸軍の軍医が留学中に、ドイツのシーメンス社から自腹でレントゲン撮影装置を購入したことを聞いて、自分の腕を撮影させました。

自分のレントゲン写真を嬉しそうに眺めて、帰っていきました。

寺内は、診断に有用だと判断して、毎年レントゲン撮影装置が購入できるよう予算を付けています。

寺内正毅のことを知ってから、人を評価する際に、予断はよくないと思いました。

東京の陸上自衛隊三宿駐屯地内にある「彰古館」には、日本初のレントゲン撮影装置が展示されています。

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