宮崎県出身の高木兼寛は公衆衛生の大物である
明治時代に創設された陸軍では一日六合もの米食を支給していました。
そのために、脚気にかかる兵士が続出します。
しかし、原因はわからないままでした。
陸軍の軍医森林太郎(後の鴎外)がドイツに派遣され、衛生学の習得と脚気の原因究明を命じられました。
林太郎は、ドイツ公使だった青木周蔵(後の外務大臣)に挨拶に行きました。
青木公使から、ドイツに何を学びに来たのかと聞かれました。
「衛生学です!」と答えたところ、青木公使に「下駄を履いて鼻くそをほじくる日本人が衛生学とは笑わせる」と馬鹿にされてしまいました。
さらに、林太郎軍医は困ってしまいました。
ドイツには脚気がないのです。
患者がいないので、脚気を研究している大学の先生はいませんでした。
一方、海軍でも陸軍と同様に脚気が多発していました。
英国留学を終え、海軍の軍医のトップになった高木兼寛は、なんとかして海軍内での脚気の発生を減らさなければならないと決意します。
英国には、脚気患者はいませんでした。
日本の国内での航海中では脚気患者が頻発するのに、外地に寄港した後に脚気が減少することに注目しました。
原因は食事にあるのでは、と気がつきます。
英国海軍で壊血病の予防法としてのレモン汁をみつけた軍医リンドの方法に習ったかどうかは不明ですが、航海での人体実験を企画しました。
明治15年に、遠洋航海をして脚気患者が多発して死者も出て大問題となりました。
翌年の明治16年にも、同じルートで遠洋航海する軍艦があったので、高木は、食事をパン・洋食に変えて、航海実験を企画して実施しました。
結果は、死者は一人も出ず、脚気患者も発生しませんでした。
この結果を基に、海軍はパン・洋食に切り替えて、日清戦争、日露戦争に臨みました。
このため海軍では脚気患者がほとんど発生しませんでした。
一方の陸軍は、海軍の方法は非科学的だと受け入れられませんでした。
森林太郎は、高木兼寛のことを「英国でローストビーフを食っていた輩」と言い、そのような説など信用できないと切り捨てます。
陸軍では、米食を主体とする食事の方針変更はなされませんでした。
その結果、日露戦争では、ロシア陸軍は脚気患者はゼロでしたが、日本陸軍では部隊の約16%が脚気にかかったと言われています。
白米には、ビタミンB1が含まれておらず、過剰に摂取するとビタミンB1不足となり、かっけが生じることが後に判明しました。
宮崎県には、高木兼寛にちなんだ「海軍医カレー」があります。
東京に住んでいたときに、宮崎市内の高岡にある道の駅「ビタミン館」にわざわざ買いに行ったところ、新宿にある宮崎館KONNEに、海軍医カレーが多く陳列されており、脱力したことを覚えております。
宮崎市の高岡には、高木兼寛の生家跡があります。
東京慈恵医大を創設した高木兼寛の生家跡を訪れた慈恵医大の学長が、荒れ果てた場所を見て、「これはどげんかせんといかん!」と、理事長と同窓会会長に連絡しました。
今は公園として整備され、高木兼寛の碑が建っています。
昨年から、宮崎大学医学部と東京慈恵会医科大学との卒前教育の相互交換プログラムが始まりました。
文部科学省の予算がついています。その名前は「KANEHIRO PROGRAM」
高木兼寛は、日本で最初に看護教育も開始しました。
高木が英国に留学中にナイチンゲールに会ったかどうかは記録が残されておりません。
おそらく、会っていたのではないかと思います。
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