非当事者研究への脚注その8
「当事者に関わる人」を「当事他者」と名づけました。では「当事者に関わらない人」をどう呼ぶのか。やはり「非当事者」と呼ぶしかないのか。
「当事者」とは、一つには「事に当てはまる者」として属性を基準にした軸と、もう一つには「事に当たる者」として行為に焦点をあてた軸が考えられます。
ここで「当事者に関わらない人」は、「事に当てはまる」かどうかよりも「事に当たる」かどうかの後者の軸の範疇にあります。では「事に当たらない者」は「非当事者」でしょうか。
「非」という否定の接頭辞は名詞にかかるので、「事に当たる」という動詞を否定する接頭辞としては、「不」あるいは「未」が考えられます。「事に当たらない者」 を直接的に表現するならば「事に当たらざる者」すなわち「不当事者」になりますが、しかし「不当」の二文字が音としても文字としても「正当」との対照として際立たせられて、「事に当たらない」ことがより一層否定的で烙印的なニュアンスとなり、これから「事に当たる」ことへの可能性を閉じてしまってはいけません。むしろ「未当事者(imparty)」すなわち「未だ事に当たらない者」の方が、今ではなくても、いずれ「事に当たる」 かもしれない可能性を感じさせることができます。それは哲学者ジョン・デューイが「未成熟(immature)」を不足や欠如といった否定的意味ではなく、成長への「可能性」や「潜在力」の表現として積極的に捉えたことに通じるものです。