歌と人生が交差する場所で。
ことばには力がある。それは、このnoteという場所で言葉を綴ったり、言葉を受け取ったりする人たちの共通認識だと思う。
日々、様々な言葉が自分の中を通り過ぎていく。些細なニュース、誰かの楽しげな会話、滲んだ血のような言葉たち。雑多でごちゃ混ぜでノイズの多いそれらの中に、ときどき、心臓の穴にぴたと嵌る言葉が通り過ぎるときがある。
それは、雑踏の中で自分の名前を呼ばれたときのような、あるいは聞き間違いかとも思うような、そんな出会いだ。
今、何に出会ったのか。まわりを見回しても、通り過ぎた言葉を捕まえられない時だってある。それでも、その瞬間の出会いをつかみ取れたら、何年経っても人生の拠り所になってくれる。そんな、言葉との出会いがある。きっと、だれにだって、ある。
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私は和歌文学を学んでいる。
しかし、何故中古文学で、何故和歌なのか。そう問われても、どう答えればいいのか正直わからない。
ただ、出会ってしまった。それだけなのだ。出会って、その出会いをいつまでも忘れられない、それだけの話である。
しかし、おそらく人生とはそういうものなのだろう。
〇
まだ学部生の頃のある授業の日。
午後一番のゼミの授業は、みな少しだけ眠たげだ。今日の担当者の発表は一通り終わり、質疑応答の段に入る。
その時、なにかについてある学生が聞いた。それがなんだったのか、はっきりと思い出せない。先生は質問に手短に答えてから、小さく深呼吸をして「えっとね」とお話をはじめられた。
言葉は、自分の中で強い武器になります。そういう出会いが、あります。わたしの場合それは、学生の時の授業でした。大学生の頃に、とても心身を崩した時があって、でもなんとか出たその授業で、紫式部と出会いました。
わりなしや人こそ人と言わざらめ みづから身をや思ひ捨つべき
衝撃でした。今の私のための歌だと思いました。それで、この道にいます。
それは、歌と先生の人生が交差した瞬間だった。
ああ、わかる。と思った。そう、わかるのだ。和歌を学んでいると、こういう瞬間がある。本当に、ある。
時代を越えて、紙を越えて、墨からインクへと変わっても、それがたとえ電子になろうとも。千年前から私の元へ、私のためだけに綴られたのかと思う言葉が、確かにあるのだ。
あらゆる孤独を、たった三十一文字が掬い上げてくれるときがある。
それで、先生も、そして私も、その瞬間に出会ってしまって、その糸を掴んでしまったのだ。きっと、そういうこと。
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わりなしや人こそ人と言わざらめ みづから身をや思ひ捨つべき
紫式部集に採録されているこの和歌、あらためて鑑賞するととても力強い。
人が自分を人並みと言ってくれなくとも、自分のことを自分から捨てるようなことがどうしてできようか。
自分を諦めきれない、その力強さが見え隠れする。
無力感や劣等感で押しつぶされそうになる日がある。あらゆる人が立派に見えるときがある。自分は何をしても、何者にも成れないのだろうな。そんな風に、自分の人生を諦めたくなるときがある。
挑戦するのも、上を目指すのも、誇りを持つのも、生きるのも、全てが嫌になる。
だけれどもきっと、誰だって自分のことを諦めたくなんてないんだ。消えているように見えるだけで、心の奥底ではいつだって小さな種火がくすぶっている。
私は生きているぞ、ここにいるぞ。
世界にそう叫びたいという種火。
ちいさくとも、絶やしてはいけない火。
その火を消さないように、大切に育てていきたい。
先生のお話を思い出しながら、そんなことを考えていた。
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