日々綴る日々。
お酒を呑みながら、煙草をくゆらす。ここは、こじゃれた静かなバーだ。間接照明に、しっとりとしたジャズのメロディ。グラスの縁を色どるソルティドッグの塩の結晶が、私の代わりに泣くみたいに、ちらちらと光る。
一口に飲むと、涙の味がしたあとにグレープフルーツのさわやかさが慰めてくれる。
帰ったら、ゆっくりお風呂に浸かって、それからお気に入りのアロマを焚きながらねよう。またくる明日を生きるために。
そう決めると、少しだけ心が軽やかになった。
ううん、駄目だな。なんだその、「ここはこじゃれたバーだ。」という文は。「これはペンです。」みたいなもんじゃないか。PPAPって、もう結構前ですよね。
しかし、こじゃれたバーを表現するのに「こじゃれたバー」という言葉しか出てこなかったとしても、しょうがないのかもしれない。なぜなら、こじゃれたバーなんぞいったこともないのだ。外でお酒は飲めないし、必然、カクテルの味なぞ知らぬ。煙草に至っては、試しに吸ってみたことすらない。仕事帰りに癒しを求めて一杯ひっかけて帰る、なんてこと、きっと私の人生では起こらないんだろうなあ。テレビドラマでこういった場面が流れるたびに、そんなことを思う。
〇
人は手に入らないものに憧れを持ったりするものだ。
身近なところでいえば、身長をはじめとする身体的な特徴。背が高い人の憧れたり、背が低くありたかったと嘆いたり。才能や、境遇、体力、経済力。
人は生まれながらに平等と言えど、肉体と言う檻にしばられ、社会システムという屋根の元で過ごす以上、今の所そういった差異は必然、起こる。
ところで、私はどちらかといえば品行方正、行儀正しく礼儀正しい。たぶん。まあ、自分でいうあたり底が知れている。
多少やんちゃをして、中学の修学旅行をバックレ、夜中ひとり家を飛び出した過去などもあるが、なに、大したことではない。それで危ない友人を作って、未成年飲酒・喫煙・援助交際、そのほか様々なものに身体を蝕まれるのであればまだしも、家を飛び出した私の行くところと言えば、専ら漫画喫茶であった。
しかも、学校のすぐ近くの。
いっそ遠くにでも行けばいいのに、あほなのか、根性なしなのか、まじめなのか、小心者なのか。十年ほどすると、もはや黒歴史も一周まわって愛おしい。
そんなわけで、『夜の世界』や『大人の世界』なんていうものに、本当に縁がない人生を歩んできた。
〇
文章の善し悪しなんてものが、正直よくわからない。
いや、それが存在しているのは分かる。しかし、評価するのは結局受け手であり、受け手にも趣味やコンディションというものがある。自分が「いいな」と思いながら書いたとて、受け手がそれを求めてないかもしれない。
まあ、だからなんだ。という話なのだが。
〇
エモい、という言葉がある。エモーショナル、感情が揺り動かされること。
エモい写真、エモい文章。よい。
深夜のコンビニエンスストアや、明日の事なんてどうでもいいと深夜の繁華街を駆ける青少年。一夜限りの身体の関係。ガードレールの錆び、ぬめついたラブホテルの浴槽、湿気がすごいベット。
情緒があるなあと思う。なんというのかな、人の生きている人生の破片がそこらじゅうに溢れている。頽廃的なものとでもいうべきか、人の本性がちらりと覗き、どきりとする。心臓が揺り動かされるような、エモさだ。
想像は出来る、だけれども、私の人生にはコンビニの前で吸う煙草は存在しないし、お酒の勢いで起きる一夜の過ちも存在しない。
それをしたいのかと言われれば、そうではない。
もしかしたら、そういった表現にある種の憧れを抱いているのかもしれない。
深夜のコンビニなんかは、まだ想像で補える。しかし、お酒を外で飲まない私にはこじゃれたバーの空気は分からないし、未だ働いたことのない私には社会人の帰り道のため息が分からない。
分かったからと言って、良い文章が書けるかと言われれば、きっとそれはちがうのだろうな。分からないからといって、良い文章が書けないかと言われれば、きっとそれもちがうのだろうな。
それでも、自分が体験したことの無い、七十六億人の人生を全て経験してみたいなと思う時があるのだ。
〇
しばらくnoteを続けていると、多少、読まれる文章と読まれない文章、というものが分かってくる。
不登校や、病気。そういう言葉が入っている文章は、多少人の目に触れる機会が多い気がする。憂鬱気味な文章や、心臓から垂れ流した血で綴ったようなもの。
誤解を恐れずに言うならば、すこし怖いなと、そう感じる。
それは、例えば不幸を消費する今の時代性だったり、読まれることを喜んで自傷行為のように文章を綴ってしまう危険性だったりに対してだ。
私は書きたいことを書くし、読む方たちは読みたいものを読む。何一つ悪いことはない。しかし、時々すこしだけ心にひっかかるのだ。
そうだな、誤魔化さずに記しておいた方がいい気がするな。
きっと私は、「病気であること」の上に立ってでしか、自分の文章が読まれないのではないのかと、恐れているのだ。
私の手元には、なにもない。本当に、なにもない。そう思ってしまうときがある。今日がそう。今、私の手元には本当になにもない。
病気であることは、私にとってアイデンティティで、人生で、語らずにはいられないことだ。でも、病気でない私にはなにもないのか?病について、それに付随する涙について語らなければ、私の文章に価値はないのか?
時に、そういうことを考えてしまう。
〇
梶井基次郎は四条大橋上で友人に向かい「肺病になりたい、肺病にならんとええ文学はでけへんぞ」と叫んだそうだ。その後すぐ結核になり、結局彼は三十一歳の若さで亡くなる。
太宰治を生涯の師と仰いだ田中英光は病になればこそ良い文が編めると信じていたようだ。彼は恵まれた体躯を持ちながら、結核に蝕まれていた太宰の才能を得ようと泥水を呑んで身体を痛め つけた。そしてそれに失敗、し最後は太宰の墓前に自殺して果てたという。
彼らの行動が、わからない、と言えば嘘になる。
分かってしまうことの、恐ろしさがある。
病気は私じゃないし、私も病気じゃない。
病について語ることは、私にとって、武器でありながら同時に自傷行為でもある。癒えていない生傷を自ら触るような、でもそうしなくちゃ生きていけないような、愛憎だな。
〇
本当は、行った事のないこじゃれたバーを舞台にして話が書ければいいと思う。それも、人に読んでもらえるようなものを。
経験したことの無いことを、人の心を動かせるほどの筆致で描ければいいのに。そんな、馬鹿みたいなことを思うのだ。
でも、痛みを伴わずに書ける人なんて、たぶん居ないんじゃなかろうか。みんな、自分の痛みに向き合っているのかも。
だとしたらやっぱり、私はそろそろちゃんと、自分の痛みと向き合うべきなのかもしれない。今まで向き合ってなかったわけでもないんだけれど、というか、たぶん一生着いて回るんだろうけれど。
そのために、毎日こうやって、うじうじと3000字近くも綴っているのかもしれないな。
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