生徒が命を落とした日
自分らしく生きることと、親の期待に応えられない辛さとの板挟みになり、
自死を選んだ成人の生徒がいた。
男性の生徒で、うちの教室に入室したのは28歳の時だった。
自死の向こうで、哀しみや寂しさが、沢山の交錯する思いが、
全く見えて来ない葬儀後の晩に、
自宅にお焼香に上がった。
葬儀がすんだ晩、お父様から電話をいただいた。
それは、生徒の携帯の番号だった。
思わず、「こんばんは、元気にしてる?」と、かわしてしまった。
「先生ですか?僕は健治の父です。いつもお世話になっています。」
?
「実は、健治、なくなりまして・・・」
「え?」
聞き間違いであってほしいという願いとは裏腹に、お父様の言葉が続いた。
「本日、無事、葬儀を執り行いましたので、先生にご報告を、と思いまして。」
「え?どうしてですか?何があったのですか?」
「自死をしまして、今日、葬儀が終わりました。先生にお借りしていた楽器をお返しに上がらないといけないので、先生のご都合を、と思いまして。」
・・・・・
言葉がなかった。
愛嬌のある、少し幼いけど頭のいい生徒さんだった。
28歳のある日、うちの看板を見て、電話をかけてきてくれた。
「ピアノを習いたいんですけど。初心者です。」
「あ、今おいくつの方ですか?」
先入観で、電話の声の持ち主の子供さんが来たいのかと思って、年齢を聞いてしまった。
「28の独身です。男性はいけないでしょうか?」
「あ、大丈夫です。とりあえず、一度体験レッスンに来てください。」
こんなやり取りから、彼との師弟関係は始まった。
初音ミクが好きな28歳の男性。初めてのレッスンではHYを弾きたい、といった。
レッスン中に何度もリップクリームを出し、唇を潤す。
気になるのかなぁ・・・と思いつつ、尋ねることはしなかった。
深夜のゲームセンターでアルバイトをしている、という彼は、2週間に一度くらいのペースでレッスンに来ていた。
練習は、ほとんどしてこなかったが、
とにかくよく、私にピアノのリクエストをくれる生徒さんだった。
ほとんど初見で弾かないとわからない曲を、それらはほとんどボカロでテンポも速いものが多かったが、リクエストを断ることはしなかったので、楽譜と格闘して弾いていたのを覚えている。
12月、うちのような小さな教室では、自宅のリビングで生徒さんを集めてクリスマス会をする。
健治くんを誘ったら、来る、というので、女の子の子供たちも、とても喜で、健治くんのためにお皿や紙コップに、
「けんちゃん」と、名前を書いてあげたりしていた。
その日、健治くんは来なかった。
それから二日後、健治くんからレッスンの予約が入り、教室に現れた。
「クリスマスに誘って、ごめんね。彼女とデートだったかな?」
そのくらいのことは会話できる間柄にはなった。
「彼女には振られましてw」
「そうかぁ・・・残念だったねぇ・・・また、いいことあるよ」
気まずい空気はなかった。
健治くんは、「定職もない俺ですから、仕方がないですよ・・・」
とつぶやいた。
相変わらず、ポケットからリップクリームを出し、レッスンの間、何度も唇を潤す。
同じ頻度で、持参したペットボトルの水を、ぐびぐびと何度も飲んでいたっけ・・・
年が明けて、
「俺、金沢の専門学校を受験しようと思うんです。」
と、あたらしい夢ができたようなことを話してくれた。
どうでも、とても難しい入学試験らしく、自信はない、と言っていた。
「そもそも理系なの?」
と私が聞いた一言に、健治くんは反応した。
「大学は東京だったんですが、いいところに行きすぎて、勉強についていけなくて、やめたんです。」
と話してくれた。
そうなんだ、心、折れてたんだ・・・
いつも、楽しい、チャラい話をしていた彼は、挫折とともに、こんなことも話してくれた。
「俺の父親、すごい人なんで」
「もしかして、先生、おやじのこと、知っていますか?」
「?わからん?」
いや、そのあと聞いたら、知っている方だった。
彼と結びつかなかったが、ああ、苗字が一緒だ。
ざっくり、同じ業界の有名人だった。
父親の仕事も、子供ながらに見に行ったりしていたらしい。
そして、尊敬しつつ、自分にはない世界観、
「音楽とは無縁だった自分でも、おやじにちかづけるかな」、とか思ったらしく、
ピアノを始めたそうだ。
成程。
やっとわかった。
練習する時間もない健治くんが、なぜピアノに通ってくるか。
父親に近づきたかったんだ・・・
そんな中、専門学校はやはりだめだった、という話を聞いた。
そして、受験勉強でやめていた仕事、何かしなきゃ、ということで、
県内の大学病院で、マウスにえさをやる仕事を見つけた、っと連絡をくれた。
「仕事に慣れるまで、ちょっと時間がかかりそうなんで、また戻るときに連絡します」
といって、しばらく、ピアノには顔を出さなかった。
その夏、私も体を壊し、入院を1か月ほどした。
偶然、健治くんのおばあちゃんと、同じ部屋になった。
面識はなかったが、いろんな人に話をする内容が聞こえてくるに、
健治くんのお父様の話にしか聞こえなかった。
あ、このおばあちゃんも、同じ苗字だ・・・
もう、当時88歳。
でも、立派になった我が子(健治くんの父親)のことを、誇らしく看護師さんに話している姿は、
まるで、優等生の子供を持つ小学生の母親のようだった。
何度か、お風呂で一緒になったりして仲良くなったけど、
私は、健治くんにピアノを教えていることは、言えなかった。
退院して間なしに、健治くんから、最期の電話があった。
「先生、レッスンに伺ってもよろしいでしょうか?」
まだ、体の状態が自信なかったので、
「もう少し、待ってもらえる?秋にはよくなると思うから」
と、電話を切った。
その秋である。
健治くんは、自宅の台所で、自死した。
台所、というところを見ると、
早く見つけてほしかったんだな、と、目が潤む。
葬儀の晩、電話で話すほどの距離でもないので、
お焼香をあげに、健治くんの家へ伺った。
お父様と、一時間くらい、話した。
お仏壇には、ピアノの楽譜が備えてあった。
それは、彼の本望だろうか?
自死を選んだ子供への「肩書」だろうか?
複雑な気持ちで、健治くんの家を後にした。
一度だけ、リップクリームを取り出そうとして、ポケットから
「精神障碍者手帳」
が、ふがいない顔を出したのを、私は見逃さなかった。
うつ病たっだのかな?
苦しんだんだね。
踏み込むべきでない領域だと、私は身勝手な判断をした。
もしあの時、
「困ったことがあったら、なんでも言ってね」くらいの、
気の利いた一言が言えたなら、
彼の自死を妨げるきっかけになっただろうか?
彼がレッスンを望んだ日、私が受け入れることができたなら、
彼は自死を免れただろうか?
いや、無理だっただろう。
私は元夫が、何度も自殺企図をするのをみた。
実際には、「死ねない」人だった。
言い方を変えれば、
「死ぬ元気がない状態」だったのだ。
健治くんは、もはや、
「生きるすべをなくした」状態だったに違いない。
声をかけられなかったこと、
レッスンを断ってしまったこと、
何度も、悔しい思いをした。
でも、しょせん、私なんていう「人間」が他人にしてあげられることなんて
たかが知れてるのだ。
今、私は、先のnoteで述べたように、
(発達)障碍を持つ子供たちにピアノを教えている。
その経験も、おそらく、普通のピアノ講師が経験していないくらい、半端ない数だと思う。
その私が思うに。
健治くんもASDではなかったか、と、気が付くことができる。
順番が違ってごめん。
今なら、もしかしたら、力になれたかもしれない。
その思いを胸に、生徒一人ひとりに、
「命優先」
のかかわりをしている。
学校がなんぼ、ピアノが弾けることがなんぼ、
命の重さよりほかに、
重いものなど、何もないのだから。
また、秋が来た。
いつかあっちの世界で会える日まで、
忘れずに待っていてほしい。
BY ともせんせい☆彡