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【映画の話】「ノマドランド」ー僕らはキャンピングカーにどんな思いを乗せるのか?ー

みなさんには、”ホーム”があるだろうか。

主人公のファーンは60代の女性。
アメリカのネバダ州で臨時教師をして暮らしていたが、町の工場が倒産したことをきっかけに、家を失ってしまう。
彼女はキャンピングカーに思い出を詰め込み、車上生活をしながら各地を渡り歩き、その場その場で労働をして生活費を稼ぐ、ノマドとして生きていく選択をする。
ファーンは行く先々で同じようなノマドたちと出会い、時にはノマドとしての心得を教わり、時には心を通わせる友人となり、そして別れを繰り返す。

そんな生活をしていた彼女は、あるとき知り合いの娘に出会い、このようなことを言われる。

「先生は、"ホーム"レスになったの?」

その問いに対して、彼女はこう答える。

「いいえ、"ハウス"レスよ」

ファーンは確かに家を失ってしまったが、彼女は自らの思い出と、心の支えを詰め込んだキャンピングカーとともに旅をしている。だから彼女は自身の心の拠り所”ホーム”を失ったわけでは決してなく、ただ、家という物理的な存在”ハウス”を失っただけであるという意味で、このように答えたのだと思う。

この場面はとても印象的で、僕はつい考え込んでしまった。
僕にとっての”ホーム”とはなんだろうか。


もうひとつ、印象的なシーンがある。それは別れのシーンだ。
旅の中で、ファーンとノマドたちは多くの出会いと別れを経験する。
どこか別の場所で再開する者もいれば、もう二度と出会わない者もいる。
様々な事情を抱えたノマドたちがいる。
病気のため、余命残りわずかと宣告されたが、余生を病院で過ごすよりも旅を続けることを決意した者。
息子と再会したことをきっかけに、旅をやめ、息子とその家族とともに家に落ち着く者。
それぞれの思いを胸に、彼らはファーンと別れていく。自分のキャンピングカーに乗り込んで、荒野を目指すほうに向かってゆっくりと走らせていく。
その後ろ姿をファーンは見送る。その姿は力強く、美しい。
どうしてそのように映るのかといえば、皆それぞれの”ホーム”を確立したからなのだろう。
キャンピングカーの背には使い込まれて魂の刻まれた旅の道具や、人生の記録を写した写真などが積み込まれている。
それは乗る者の人生の一部となって、一体となっている。
自分自身だけの”ホーム”を見つけて、その思いが反映されている車の背中はきっと、強くて美しいのだ。

ほとんどの人はノマドのような生活をしているわけではないけれど、全員が人生の旅をしていると思う。
皆それぞれのキャンピングカーに何かを乗せて、人生を歩んでいく。
僕はキャンピングカーに何か乗せたいものがあるだろうか。
考えてみたけれど、よくわからない。
それはまだ僕の中で、"ホーム"が何なのか、正直よくわかっていないからだろう。
それは誰かからもらった物であるかもしれないし、自分の心のなかから生まれてくる信念のようなものかもしれない。
いずれにせよ、僕はそれをいつか見つけたいと願う。
そして、ノマドランドの登場人物たちのように、強くありたいと思う。誰かが僕の背中をみて、強く美しい背中だと思ってくれる日が来るのだろうか。

とにかく、僕はまだまだ旅を続けなければならない。自分の"ホーム"を見つけるために。





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