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未熟さの魅力 「熱」

 休職してから書いたnoteについて、幸いなことにポツポツと「スキ」をいただけている。「これにスキをするということは、スキした人も似た境遇だったりするのかな?」という疑問をきっかけに、他者のnoteも色々見るようになった。
 すると、意外にどれも面白いぞ、ということに気づいた。当然プロ並みの文章力があるわけではないし、中身もめちゃくちゃ面白い、興味深い!とまでもいかない。ただ、「私は今日こういう状態だったんだ」「私はこれが書きたいんだ」「私はこう感じたんだ」「私にとってこれが大切なんだ」という、書き手の生々しい「熱」がそのまま文章になっているかのようで、ついつい読んでしまう。
 これをきっかけに振り返ってみると、私は子供の描いた絵が好きだったりする。技術的には未熟だが、これもやはり「これが私のカワイイ」「これが私のカッコイイ」「私はこれが描きたいんだ!」という「熱」が伝わってくるものだ。「熱」そのものが発露しそこに体現しているような状態だ。

 総合して考えると、「技術が未熟だからこそ伝わってくる熱」というものが確かに存在しており、私はそこに魅了されているのだ、気づいた。

 ここで自分の創作(既存曲のアレンジ・演奏)について考えてみると、結構「無難さ」を求めがちだったりすることに気づく。間違っていることや大きく外れることを恐れる、という感覚だ。例えば明らかな演奏ミスは論外だが、音色だったりミックス(他の楽器との調和具合の調節)だったりは、なるべく普通にかっこよく、なるべく既存曲を真似して無難に、という気持ちがある。商業音楽のようなしっかりとした良いバランスの曲に仕上げること自体はとても良いことだと思うが、「俺はここのギターのこの表現が好きだから聴いて欲しいんだ!誇張したミックスにしてやる!聴けオラァ!!」といった「熱」は失ってしまっているだろう。
 ただ、今進行中の自分のアレンジは「誰かの作業のお供のBGMとして使ってもらえたらいいな」と考えて作っているので、奇をてらうことなくちゃんと無難さを目指していきたい。今回は「熱」を抑え気味で、また今度「熱」の発露が必要な場合は思う存分盛り込むことにしよう。

 ちなみに余談だが、経験上、エレキギター初心者の「熱」がライブで体現されると「爆音だけど音色歪ませ過ぎて何弾いてんのかわかんない上に高音がめっちゃ強調されて耳に痛いだけの客を苦しめるノイズ」になりがちなので、「熱は大切だ!細かいことは気にするな!さぁみんな熱上げてこーぜ!!」とも言い難かったりもする。その時の環境・状況・目的等を充分に検討し、バランスを考慮して「熱」を発散するのが一番良いのだろう。難しい話だ。

 皆さんの「熱」で、誰かが幸せになれますように。

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